2008年4月25日 (金)

『愛おしき隣人』

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『愛おしき隣人』です。

トリアー、カウリスマキに並ぶ、北欧からの怪人が登場

個性派ぞろいの北欧から『散歩する惑星』で知られる鬼才ロイ・アンダーソンの新作が届いた。今回彼が仕掛けるのは、なんと「ストーリーが存在しない」物語。そこでは人々の見た悪夢がモザイク状に散りばめられ、ある女性は怒りに任せてラップ(?)を口ずさみ、ある男はマチャアキばりのテーブルクロス芸に大失敗。列車の音がうるさくて眠れない男がいれば、新婚夫婦の住居が突然車両となって発進し窓越しに大勢が「結婚おめでとう!」と祝福したりもする。すべては一時的。過ぎ去るともう二度と戻ってこない夢の嵐。最初は頭の中が「?」でいっぱいだが、ハマるとなんだか可愛らしくって愛おしくて、不思議ゾーンの魅力に火がついて止まらなくなる。

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愛おしき隣人
監督:ロイ・アンダーソン
出演:ジェシカ・ランバーグ、エリック・ベックマン、エリザベート・ヘランダー
(2007年/スウェーデン=フランス=デンマーク=ドイツ=ノルウェー=日本)
スタイル・ジャム、ビターズエンド
4月26日より、恵比寿ガーデンシネマほか全国順次ロードショー

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2008年4月24日 (木)

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』

長文はウンザリな方は、300文字でサクッとチェック。

 クセのあるキャラクターが大量投入されることは無い。ジョン・ブライオンによるおもちゃ箱をひっくり返したかのような音楽も無ければ、機関銃のようにしゃべくりまくるセリフの狭間にポッと生じる“間”のマジックも存在しない。つまりこれまでポール・トーマス・アンダーソン(以下PTA)のトレードマークとされてきたものがどこにも無いのだ。何の前触れもなく本編を見せられたら、誰がPTAの作品だと言い当てられるだろう?

 常に前進し続けることを自らに課したPTAは、冒頭から衝撃的な行動に打って出る。主人公をこれまでとは天と地ほどかけ離れた僻地へと追いやってみせるのだ。それはPTAが自らに課した苦行のようでもある。

 そこは何もない砂漠地帯。はじめは言葉さえ存在しない。バックにはジョニー・グリーンウッドの奏でる不気味な不協和音が運命の流転を匂わせる。ダニエル・デイ=ルイスのヒョロリと伸びた身体が横たわる。穴を掘っては爆薬を仕掛けるこの男。とても原始的な作業だ。危なっかしい。そして案の定、第一の試練が訪れる。彼はまるで『マイ・レフト・フット』でアカデミー主演男優賞を受賞したときのような壮絶な演技で窮地を脱する。

 そしてこれらの、本作にとっては“儀式的”とさえいえる冒頭を駆け抜けると、そこには原作小説のタイトルが示すように「OIL!」が勢いよく噴射する光景が現れる。なんと神々しいことか。それは長らく待ち望んだ崇高な存在が地上へと降臨したかのような、極めて神聖な瞬間だった。

 すべてはここから始まる。主人公を取り巻く黙示録もここから。

 やがて、血の繋がっていない幼子の手を引いて旅を続ける石油採掘師・プレインヴューは、自分が目をつけた土地の住人たちに向けてこのような言葉を投げかけることになるだろう。

 “THERE WILL BE OIL”

 それを語るときの彼の表情は預言者めいている。「私と組んだら大金持ちになれる!」。20世紀初頭のカリフォルニア、彼のような山師は大勢いた。様々な個人や企業が石油をめぐる熾烈な争いに名を連ねていた。血眼になって土地を買占め、地中を掘り進める。出るか?出ないか?すべては神のみぞ知る。その限りある資源の争奪戦の結果が、現代にどのような歴史をもたらしたかいついては、プレインヴューよりも僕ら現代人の方がよく知っている。

 “THERE WILL BE BLOOD”

 本作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は、ひとりの人間がモンスターのように変幻しながら石油を追い求めるという、まさに人類の負の歴史をここに集約したかのような超大作だ。そしてPTAが156分もの長尺を駆使してまで描きたかったのは、黒い液体が赤へと、つまりOILがBLOODへと姿を変える映画的魔法だった、ということができるだろう。

 人間のスケールを大きく越えたダニエル・デイ=ルイスの演技は、本作でアカデミー主演男優賞を受賞した。彼の演じるプレインヴューは、親子、兄弟の関係性すらも破綻させながら、暗黒の運命に向かって猪突猛進を決め込んでいく。この怒髪点を抜く迫力を目の当たりにすると誰もが『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』をデイ=ルイスの映画なのだと解釈してしまう。しかしそれは違う。

 彼の前に立ちはだかる男がいる。牧師イーランだ。演じるのは、『リトル・ミス・サンシャイン』でニーチェを敬愛する兄貴役を演じたポール・ダノ。第一印象は天使のように穏やかだが、自分の住む小さな町が石油の産出地へ豹変していくことで、彼もまた“カリスマ”とはちょっと違う不気味な宗教指導者へと成り果てていく。

 彼の説法は絶叫に満ちている。慈愛と狂信を全身にみなぎらせ、顔を真っ赤にさせながら涙目で「悪魔よ、出て行け!」と叫ぶ。とりわけプレインヴューに洗礼を施すシーンの異様さは筆舌に尽くしがたい。まるでカメラを回しっぱなしにして、ふたりの狭間で異様な空気が醸成されていくのをじっと観察し続けているかのようだ。なかなかカットがかからない。ふたりも演技を続ける。もういいだろう。いや、でもまだカットの声はない…普通ならばグダグダになってギャグへと転じてしまいそうなこのシークエンスで、彼らとPTAは絶対に逃げないのである。

 石油を探究するプレインヴューと、神の道を探究するイーラン。彼らは一対の合わせ鏡のようになっている。ふたりしてモンスターへと豹変していき、ことあるごとに衝突する。資源と宗教。合わせ技で一本。論じ始めれば現代にまで及んでしまいそうな歴史の火種がこの小さな田舎町を席巻する。いや、でもそれだけではこの物語は終わらない。

 原作小説でいうならば、本作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』はアプトン・シンクレアが著した「石油!」の一部分にしか過ぎない。原作ではこのあと、“資本家プレインヴュー”VS“血の繋がっていない息子”との飽くなき闘いへと発展していくのだ。映画の終盤、プレインヴューは息子に対して「バケモノめ!」と罵詈雑言を浴びせる。何を口走っているのか。バケモノはプレインヴュー自身ではないか。あるいは彼自身も父親から同じ言葉を浴びせかけられたのだろうか。歴史は繰り返される。目の前の息子もまたバケモノへと変貌していくカルマを宿しているのだろうか。

 先に、“資源”と“宗教”は現代に連なる悲劇のテーマだと述べた。だが『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は評論的に時代を読み解くことなどしない。これは紛れもない人間の物語だ。「たかがひとりの人間の破茶滅茶な人生」と誰かが言うかも知れない。しかし、血のつながりのまったく無いところで、同じ“怪物性”というやつは暗黒の液体が勢いよく噴射するかのごとく生じ得るのであり、何もプレインヴューだけが特別なのではない。

 息子、それにイーラン牧師。あるいはすべての人間の内面に巣食っているのかもしれないこの“怪物性”を真正面から描ききる。これまでのようなテクニックなどは通用しない。PTAは自らの内面にさえ巣食うこの魔物を赤裸々にあぶりだしながら『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の世界を宗教画のように描きこんでいく。

 “THERE WILL BE BLOOD”

 初めから結末はわかっている。しかしどういうわけか胸に爽快感が吹き込んでくる。すべての石油が噴出し終わったときのような、もう失うものなどなにもないようなこの達成感。それはひとつの神話の完結を意味する。PTAがこのジャンルに挑むことはもう二度とないだろう。ふとエンドクレジットの終盤に「ロバート・アルトマンに捧ぐ」の文字。そもそもPTAの傑作群像劇『マグノリア』はアルトマンの『ショートカッツ』の発想があってこそ生まれえたものだ。PTAはアルトマンの遺作『今宵、フィッツジェラルド劇場で』の撮影中、もしもの事態に備え「代打監督」として常に現場に付き添っていたという。物語とは全く関係ないが、こんなところにも血の繋がっていない親子のような関係性がついて回る。

 天国にいるロバート・アルトマンは「よくやった!」と笑っているだろうか。それとも「バケモノめ!」と嫉妬心をあらわに罵り倒しているだろうか。ともあれ、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は未来の巨匠PTAが踏みしめたマイルストーンとして、末永く語り継がれていくことだろう。

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ゼア・ウィル・ビー・ブラッド
監督:ポール・トーマス・アンダーソン
出演:ダニエル・デイ=ルイス、ポール・ダノ、ケヴィン・J・オコーナー、
キアラン・ハインズ、ディロン・フレイジャー
(2007年/アメリカ)ウォルトディズニースタジオモーションピクチャーズジャパン
4月26日よりシャンテシネほか全国順次ロードショー

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2008年4月23日 (水)

『アイム・ノット・ゼア』

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『アイム・ノット・ゼア』です。

神様の人生を描くには、アヴァンギャルドな手法がよく似合う

ロックの神様、ボブ・ディランの人生が映画化!…といっても、そこでは名前も年齢も性別も違う6人の俳優たちがそれぞれ詩人、アウトロー、映画スター、革命家、放浪者、ロックスターとしてタスキを繋ぐ。まるで群像劇。でもこれらはすべて紛れもないディランの人生なのだ。一箇所に留まることを知らず、世界を変幻自在に渡り歩く存在。気がつくと彼はもう次なるステージへと昇っている。つまり、“He’s not there!”なのだ。彼のいちばんカリスマティックな部分を演じるケイトも印象的だが、急遽したヒースの体現する苦悩と孤独、それに黒人少年(彼もまたディラン)の神々しい屈託のなさが、ディランの知られざる側面に彩りを添える。

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アイム・ノット・ゼア
監督:トッド・ヘインズ
出演:クリスチャン・ベイル、ケイト・ブランシェット、マーカス・カール・フランクリン、
リチャード・ギア、ヒース・レジャー、ベン・ウィショー
(2007年/アメリカ)ハピネット/デスペラード
4月26日より、シネマライズ・シネカノン有楽町2丁目ほか全国ロードショー

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2008年4月20日 (日)

『紀元前1万年』

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。本日の執筆者は「ひまわり親方」さん。お題は『紀元前1万年』です。

さらばエメリッヒ、炎の向こうで悠久のダンスを踊れ。

ウホホホホ!俺、マンモス、追いかける!デッカイ鳥に突つかれる!サーベルタイガーにギロッと睨まれる!紀元前1万年は毎日が波乱万丈。でもやっぱ怖いのは人類だった。獰猛な民族の襲来で平和な村はあっという間に崩壊し、多くの村人は奴隷としてピラミッドのある大都市へ…って、これ、『アポカリプト』そのまんまじゃん!その上、使用言語はもちろん英語ってんだから、さすがエメリッヒ、ハリウッドのエンタメ文法もここまで極まれば逆にアッパレだ。そしてエメリッヒ映画のトレードマーク「演説シーン」の登場に座席から転がり落ちた。うはっ、こ、これは…凄すぎる。リアリズムの時代にこれほど我流を貫けるとは。ある意味、伝説だぜ、ウホホ。(ひ)

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紀元前1万年
監督:ローランド・エメリッヒ
出演:スティーブン・ストレート、カミーラ・ベル、クリフ・カーティス
(2008年/アメリカ)ワーナー・ブラザーズ映画
4月26日、全国ロードショー

ぜひこの2作を見比べてみて!『アポカリプト』の監督メル・ギブソンは、ローランド・エメリッヒ監督作『パトリオット』で主演も果たしているのだが・・・。どうしてここまで似通ってしまったのか。

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2008年4月19日 (土)

『大いなる陰謀』

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『大いなる陰謀』です。

せめて2、3年早く出逢えたら、こんなに哀しくはならなかった

新たな軍事作戦を推し進める気鋭の共和党議員がジャーナリストに特ダネを優先提供する。その瞬間にも戦場では若き兵士たちの命が危険にさらされ、また大学の研究室では、教授が生徒に“ある教え子の話”を切り出していた…。主演作『大統領の陰謀』で国家に挑んだレッドフォードが、今度は現代社会のジレンマを3つのステージで切り崩す。原題は“Lions for Lambs”。獅子(勇敢な兵士たち)が羊(彼らを利用する政治家)のために犠牲となる皮肉を表している。ヒューマニズムは冴え渡るが、全てはタイミングが悪かった。大統領選が過熱する中、この手の主張は語り尽くされた感が強い。トムの不人気も相俟って、着想・製作から公開までのタイムラグが残念でならない。

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大いなる陰謀
監督:ロバート・レッドフォード
出演:ロバート・レッドフォード、メリル・ストリープ、トム・クルーズ、
マイケル・ペーニャ、デレク・ルーク
(2007年/アメリカ)20世紀フォックス
4月18日より日劇ほか全国ロードショー

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2008年4月14日 (月)

『つぐない』

長文がうんざりの方は300文字でサクッとチェック。

 前評判の割にはアカデミー賞で惨敗を決め込んでしまった『つぐない』。

 イアン・マキューアンの原作はかなり分厚い小説なのだが、『プライドと偏見』をご覧になった方には既にお分かりと通り、ジョー・ライトという監督はまだ30代の若さながら、これらの小説における文体を見事な映像詩へと変換していく。ふと目にしたポスターなどからクラシックなイメージを思い浮かべる方も多いだろうが、それはちょっと違う。文芸=クラシックという思い込みの向こう側にジョー・ライトの秀でた才能は華々しく開花し、息を呑むほどの芸術性と“フィクション”を俯瞰する大仕掛けは観客の心を深遠な領域にまでいざなってやまない。

 カタカタカタカタ…

 時計の音でもなく、心臓の鼓動でもない。大きな屋敷の一室に、ひとりの少女の姿。机に張り付いて懸命にタイプライターを奏でている。最初はぎこちなく、そこに零れだすアルファベットは一つ一つがリズムを発し言葉を紡ぐ。カタチを帯びてきた言葉の群れはやがてメロディーとなってこの映画のテーマ曲を呼び覚ます。ナレーションは要らない。すべてはイマジネーションだけで連なっていく。渾身の力で最後の改行をくだす少女。タイプが「チン!」と甲高い金属音で応える。「the end」。この日、少女は初めて自身の作品を著し、作家となった。

 事件はその直後に起こる。ささやかなパーティー。想いを打ち明け合け、愛し合う姉と庭師。ひとにぎりの悪意、衝動がうごめく。そこに穢れを知らない少女の自信に満ちた声が響く。その一言は、ひとりの青年を奈落の底へ突き落とすのに充分なものだった。

 そしてこの日をきっかけに少女の“つぐない”が始まっていく。それがどんなに長くて険しい人生になろうとは、少女にとって知る由も無かった…。

 少女、美しき姉、そして庭師。本作はこれら3つの魂がそれぞれに遍歴を重ねていく物語だ。そして時代は人類が享受したもっとも悲惨な体験へとなだれをうって転がり落ちていく。果たしてこの戦争という悪夢をどのように描くのか。それは映像作家に課せられた腕の腕の見せどころといえるだろう。

 …とまあ、軽い感じでお手並み拝見と構えていたら、思わず感極まって嗚咽しそうになった。それはジェームズ・マカヴォイ演じる庭師・ロビーが戦地に赴き、はぐれた連隊を追って仲間と共にフランスの広大な砂浜に辿りつく場面で巻き起こる。原作にあった行軍の様子が映画ではほんのワンシーンに奇跡的なまでの質感で凝縮されていたのだ。

 そこではおびただしい数のイギリス兵士が、祖国へ帰るための船を待ち続けている。瀕死の負傷兵たち。もはや死んでいるのか生きているのか分からない。ある者は傷ついて倒れ込み、ある者は狂ったように喧嘩に興じ、またある者は小高い丘で神を賛美し力のかぎり歌声を響かせる。メリーゴーランドに乗って子供のようにはしゃぐ者もいる。いま向こうで馬が射殺された。遠くには観覧車がそびえたつ。すぐそばを巨大な武器が運ばれていく…この天国と煉獄と地獄とがすべていっしょくたに混ぜ合わせたカオスの中を、ロビーと仲間たちは我を失ったようにひたすら水を求めて彷徨い歩いていく・・・

 描写が恐ろしいわけではない。惨劇でもなければ、残虐でもない。しかしどうしようもなく足が震えてしまうのは、すべてがまるで“詩”だからだ。そこでは言葉が何の効力も持たず、ただイメージだけが無限に広がっている。

 そして驚くべきことに、このシークエンスはなんとワンカットの長回しで撮られているのだ。間断なく続く映像にあわせ観客のエモーションが膨張していく。息継ぎができない。というか息をすることすら忘れている。カメラは荘厳なサウンドトラックに身体をゆだね、拠りどころを失った魂のようにフワフワと宙を漂い、その場の混沌をゆっくり俯瞰すると、再びロビーたちの身体へと舞い戻ってくる。こんなにも心揺さぶられるワンカット撮影に僕はこれまで出会ったことがあっただろうか。

 かくもジョー・ライト監督のイマジネーションには度肝を抜かれっぱなしなのだ。原作を大胆にアレンジして2時間の枠に収める脚色術はよく見かけるが、『つぐない』に限ってはその大半が原作どおりに進行するのも特筆すべき点だ。ときおり原作の方がむしろこの映画のノベライズなのではないかと疑いたくなるほどに完璧な翻案ぶりを見せる。決して急ぎ足になることなく、優雅に、そしてテンポよく駆け抜けていく様に、『プライドと偏見』に見られた“現代劇とクラシックのミクスチャー”の進化系をまざまざと見せ付けられる。

 だが物語はそれだけでは終わらない。最後の最後で思いもよらない“フィクション”の大仕掛けを炸裂させるのだ。それは「なぜ作家は書くのか?」「その意図は何なのか?」「それは実体験に基づくのか?」といった、我々が物語について宿す様々な疑問に対して極めて真摯な答えを供してくれるものに違いない。

 そして冒頭で誕生した幼き作家が生涯かけて全うしようとした本当の“つぐない”の意味を知ったとき、身体の中に電流が走ったかのようだった。本作はあくまでイアン・マキューアンという中年男性作家による完全なる創作であるが、きっと多くの観客の心にはこの物語が史実であるに違いないと映るだろうし、ブライオニーこそが本作の書き手であると信じてやまないことだろう。

 それはひとえに文字ではなくこの映画が紡ぐ“映像”の力なのであり、3人の魂に寄り添って歩いてきた我々がこの物語の中に信用するに足る“何らかの整合性”を見つけたからに他ならない。

 我々の心の中でそれが真実であると映ったとき、ブライオニーの仕掛けたささやかな魔法はそっと花を咲かせる。たとえそれがフィクションであったとしても、僕らの胸に刻まれた痛みと悲しみは限りなく本物と呼ぶにふさわしいものだと僕は信じている。

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つぐない
監督:ジョー・ライト
出演:ジェームズ・マカヴォイ、キーラ・ナイトレイ、シアーシャ、ローナン
ロモーラ・ガライ、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ブレンダ・ブレッシン
(2007年/イギリス)東宝東和
4月12日(土)新宿テアトルタイムズスクエアほか全国順次公開

原作「贖罪」のクライマックスでは、映画とは一味違った味付けがなされています。クライマックスの衝撃をもういちどじっくりと味わいたい人にはいちど紐解いてみられることをお勧めします。ちなみに僕は原作ラストのあまりに優しい触感にまたもや涙してしまいました。

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2008年4月10日 (木)

『王妃の紋章』

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『王妃の紋章』です。

さすが王朝の家庭崩壊はスケールが違う

近年、絢爛豪華な武侠映画が続く中国の巨匠チャン・イーモウ。今度の新作は後唐時代に君臨した“黄金の王家”の物語だ。王が王妃に毒を盛れば、王妃は義理の息子と密かに不倫。果てにはその兄弟たちも家庭崩壊の泥沼に足を突っ込んでいく。さすが北京オリンピック開会式の総合演出を務めるイーモウ、数万人規模のエキストラを軽々と動員してみせる演出力は計り知れない。飛び交う弓矢、飛び散る鮮血、空から舞い降りる忍者軍団。でも、ここまで渾身の力を込めて描かれるのが、たかが“(王朝の)ホームドラマ”という 落差に、あきれを通りこしてむしろ拍手を送りたくなる。これは中国へのラブレターであり、壮大な『家族ゲーム』でさえあるのかも。

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3月21日の「NEWS23」にイーモウ監督が出演していました。そのときの発言録はこちら

王妃の紋章
監督:チャン・イーモウ
出演:チョウ・ユンファ、コン・リー、ジェイ・チョウ
(2006年/中国)ワーナーブラザーズ
4月12日(土)東劇ほかにて全国ロードショー

【メモ】朝日新聞(4月11日夕刊)によると、『王妃の紋章』の原案は「劇作家曹 禺(ツアオユイ)の『雷雨』。革命前の資本家一家の崩壊を描いた著名な戯曲で、中国の演劇学生なら一度は演じたことがある」ものなのだそうです。つまり、チャン・イーモウはこの原作世界を思いっきり唐代へ放り込んでしまったわけですね(なので、この物語は史実にあらず)。残念ながら「雷雨」の翻訳版は絶版となっているようです。

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『フィクサー』

アカデミー賞 助演女優賞(ティルダ・スウィントン)、獲得!

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『フィクサー』です。

長文レビューはこちら

今度のクルーニーは“フィクサー=もみ消し屋”

NY最大の法律事務所。とある企業訴訟の担当者が良心の呵責に耐え切れず、クライアントに反旗を翻す。すかさず事務所はフィクサーを送り込み事態の収拾を図るのだが…。ストイックかつ骨太な作風で知られる“ジェイソン・ボーン”シリーズの脚本家トニー・ギルロイの初監督作。今回のクルーニーはオーラを消し去り、正義に目覚めた同僚をなだめつつも営利主義の中枢で激しい葛藤に苛まれる仕事人を見事に演じる。利益のためなら善悪をいとわぬ現代社会を打破することは可能なのか?いつしか焦燥しきった彼が息子に託す希望の言葉が深く胸に突き刺さる。『シリアナ』『グッドナイト&グッドラック』に続くクルーニーの“迷えるアメリカ”3部作、その決定版と言える一作。

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フィクサー
監督:トニー・ギルロイ
出演:ジョージ・クルーニー、ティルダ・スウィントン、
トム・ウィルキンソン、シドニー・ポラック
(2007年/アメリカ)ムービーアイ
4月12日、みゆき座ほかTOHO系全国ロードショー

ブッシュ政権下のアメリカにおいて『シリアナ』『グッドナイト&グッドラック』、そして今回の『フィクサー』といった重厚なメッセージを含んだ作品群を送り出してきた製作会社“セクションエイト”。ジョージ・クルーニーとスティーブン・ソダーバーグが立ち上げたこの会社も遂に解散してしまいました。これについてクルーニーは「だんだん会社としての組織に束縛されるようになってきた」と理由を述べていますが、僕にはもうひとつ背景があると思います。つまり、既にアメリカをはじめ世界の人々は「世の中がおかしい」と気付きはじめた。この状況を受けて彼らは、もはや着火点としてのセクションエイトの役割は終わりを迎えたと判断したのではないでしょうか。

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『つぐない』

アカデミー賞 作曲賞(ダリオ・マリアネッリ)、獲得!

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『つぐない』です。

長文レビューはこちら

まさかこれほどまでとは思わなかった…

『プライドと偏見』で頭角を現した弱冠35歳のジョー・ライト監督が、長編2作目にして大成長を遂げた。原作は2002年に出版されたイアン・マキューアンの「贖罪」。『プライドと偏見』と同じくクラシックな雰囲気漂う物語ではあるが、ひとりの少女の誤解によって離れ離れになってしまった若き男女の運命と、その少女が生涯をかけて誓う“つぐない”を、見事なまでの芸術性とカメラワークで綴っている。とりわけ彼らの前に立ちはだかる“戦争”という名の混沌をたったワンショットで俯瞰するシーンは、息が止まるほどの感動で観客を揺さぶってやまない。そして終幕にかけて“フィクション”の魔法を少々。まるで魂の浮遊すら感じさせる渾身の123分に心から拍手。

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つぐない
監督:ジョーライト
出演:キーラ・ナイトレイ、ジェームズ・マカヴォイ、シーアシャ・ローナン、
ロモーラ・ガライ、ヴァネッサ・レッドグレイヴ
(2007年/イギリス)東宝東和
4月12日(土)より新宿テアトルタイムズスクエアほか全国順次公開

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2008年4月 9日 (水)

『フィクサー』

長文がうんざりの方は、300文字レビューでサクッとチェック。

 長年の脚本家畑から本作『フィクサー』で念願の監督業へと進出したトニー・ギルロイ。その名前はキアヌ・リーヴス、アル・パチーノが競演した『ディアボロス/悪魔の扉』(97)や『プルーフ・オブ・ライフ』、はたまた『アルマゲドン』などでも知られてきたが、2002年『ボーン・アイデンティティー』に始まる“ジェイソン・ボーン”3部作すべてに関わったことでそのストイック且つ骨太な作風を世界中に知らしめた。といっても『ボーン』シリーズはどれも二人以上の脚本家が関わっていて、映画が大ヒットを飛ばすに連れてトニー・ギルロイの役割は細かいライティングよりむしろストーリーを構成する“統制役”に移っていったようだ(スプレマシーとアルティメイタムの時間軸を絶妙にズラすアイディアもトニー・ギルロイによるものだった)。

 そんな彼が『ディアボロス』で取材した法律事務所での実体験を10年近くも練り続けた成果が『フィクサー』だ。彼をサポートする製作者陣も名だたる面々ばかりが顔をそろえた。とりわけスティーヴン・ソダーバーグ&ジョージ・クルーニーのふたりに関しては、9.11以降の“迷えるアメリカ”の時代に『シリアナ』や『グッドナイト&グッドラック』といった骨太な社会派作品をぶち上げてきた功績がある。ふたりの製作会社セクションエイト(“section eight” には“兵役不適格”という意味がある)は「会社組織が大きくなりすぎ、映画作りを純粋に楽しむことができなくなった」ことを理由に既に解散してしまったが、その解散直前に製作された『フィクサー』はいわばセクションエイト作品としても“新しいアメリカ”に希望をつなげるための集大成に位置するものである。

 アメリカにとって、世界にとって、重苦しい時代が続いてきた。“自由”という尊い概念をそれぞれが際限なく拡大解釈し、これほど混沌とした空気が広がっていった時代は久しく存在しなかった。しかしいまこの瞬間、何かが変わり始めている予感が少なからずある。人々は既に多くのことに気づき始めている。「自分ひとりが行動しても世の中は変わらない」という無力感は少しずつ払拭され始めている。

 『フィクサー』で描かれるのは、こんな社会の流れを凝縮した司法社会だ。舞台となるのはニューヨークにある大手法律事務所。顧客である大手企業の利益を最大限に守るために多くの社員を動員して企業訴訟の対応に当たらせる。だが主人公マイケル・クレイトンの立場は少し違う。彼は華々しい法廷に立つことはなく、“フィクサー”という役回りに徹している。顧客の身に法律で対処できないような複雑な問題が発生したときにいち早く駆けつけ処理を施す、いわば“便利屋”みたいな役どころだ。

 上司からも重宝がられる彼だが、表舞台で活躍する同僚のように稼ぎが良いわけではない。それに彼は結婚に失敗し、副業にも失敗し、借金取りには返済の最終期限を突きつけられている。平静を装ってはいるが、内心は焦りと絶望で満ちている。

そんなときに事件が起こった。とある大企業に対する3000億円規模の集団訴訟を担当していた弁護士が精神に異常を来たし、法廷で全裸になろうとしたのだ。上司はすぐさまマイケル・クレイトンを急行させる。優秀な弁護士に何が起こったのか?留置所で面会した彼はクレイトンに驚くべき真実を打ち明ける。

 企業による悪質な隠蔽工作。

 その決定的な資料を目にした弁護士は、これまでのキャリアで積もりに積もった良心の呵責に耐え切れなくなり、遂にブチ切れてしまったのだ。興奮しながら怒りの咆哮を繰り返す弁護士。クレイトンは彼をどうにか説得し事態を収拾しなければならない。騒ぎを聞きつけて企業側の女性法律顧問が身を乗り出してきた。彼女は企業を守るためならどんな手段をも辞さない覚悟を決めている。彼女の配下ではきな臭い男たちがうごめく。いつしか出来上がってくる三者のトライアングル。そしていつしか、内部に足を突っ込みすぎたクレイトンの身にも危険が及び始める…。

 主演のジョージ・クルーニー、助演のティルダ・スウィントン、トム・ウィルキンソン。彼らがアカデミー賞にノミネートされた理由にはそれぞれの卓越した演技もさることながら、脚本の人物描写が秀逸さが挙げられる。ここには100パーセントの善人や悪人は登場しない。すべてがグレーな存在。とくに予想外にも助演女優賞を獲得したティルダ・スウィントンは企業側の法律顧問として自信満々の表情を浮かべながらもその裏側では圧倒的なプレッシャーに押しつぶされそうになっている。トイレにこもり、全身に汗だくになり、そして自分を鼓舞しながらまた職場へと戻る彼女を完全なるヒールとしてみなすことなどできない。観客は登場人物の誰にも増して“彼女の素顔”を目撃してしまうのである。

 これにはトニー・ギルロイなりのこだわりがあった。彼の愛する70年代の映画の多くは善悪の価値観が簡単に割り切れないものとして描かれている。分かりやすさではなく、もっとギスギスした人間関係から難産を経て生み出されてくる希望や絶望を人々が享受した時代だった。“ジェイソン・ボーン”シリーズの骨太さがどこか70年代回帰を匂わせていたのも、彼を始めとする映画人たちに“流行の30年周期”を意識させた部分があったのだろう。奇しくもアメリカ軍が正当性のグレーな大義名分を抱えてベトナムへと乗り込んでいき、おびただしい悲劇を呼んだ時代だ。時代も、そして映画も、繰り返している。

 また、『ノーカントリー』のハビエル・バルデムがいなければオスカーを獲得していたであろうトム・ウィルキンソンの狂気じみた演技が凄い。咆哮に次ぐ咆哮が映画のトーンに激震を刻む。これまで溜まっていた汚物を吐き出すかのように、彼は自分が正義と信じる限りを尽くそうと行動に出る。その瞳孔が開きっぱなしの目が、もう引き返せないギリギリの状況を伝えている。

 このふたりに比べると、今度のジョージ・クルーニーは影が薄い。感情を激しく吐露することはなく、受身の演技が延々と続く。彼は弁護士から驚くべき事実を聞かされるが、それは自分個人の力ではどうしようもないことだと気がついている。ここで正義の鉄槌を下して会社から放り出されるよりも他に大切なことがある。借金を返さねばならないし、別れたきりの家族のことだってある。こうしているうちにも期限は迫ってくる。目の前に抱えたヤマは一向に解決の目処が立たないどころか、あわよくば自分の生命までもが脅かされるかもしれない。こうした心の揺れが少しずつ少しずつ何かを醸成させていく。絶望。無力感。悪あがき。

 そんな中で、ひとつの奇跡的なシークエンスが静かに爆発する。クルーニーが助手席に座った息子に対し「自分が取るに足らない人間だなんて考えちゃダメだ。お前は必ずできる。輝かしい未来が待っている」というセリフを語りかけるのだ。これがとてつもない名シーンだった。息子は「分かった」というが、あんな小難しいことが幼い子供に分かるわけがない。あれは主人公が紛れもない自分自身(あるいは自分の分身としての子供)に向かって語りかけたものだった。もしかすると、彼と同様、何かに躓き一歩先に進めずにいるあらゆる現代人に向けてのメッセージですらあったのかもしれない。

 先述したようにトニー・ギルロイは脚本家出身だ。しかし彼は“誰にも思いつかないプロット”を生み出すようなアイディア人というわけではなさそうだ。宣伝で謡われている「ラスト10分の衝撃!」もフタを開けてみると、これまでに何度も目にしてきた“予想外の展開”が繰り返されているようにも思える。しかしそこで我々を驚かせるのは“予想外のジョージ・クルーニー”なのだ。形態の定まらない浮遊物として漂うこのキャラクターが、最終的にどのような態度を決めるのか。すべては彼の身体から繰り出される演技に委ねられている。

 いつしかトニー・ギルロイは何よりもその大切さを知っている脚本よりも演出に重きを移し、最終的に“役者の魂”に望みをつないでいく。それを象徴するのがほかならぬラストシーンということになる。詳細は避けるが、ここから映画が暗転するまでの間、ジョージ・クルーニーは一言も言葉を発しない。脚本家が言葉を捨て去り、演出に徹し、役者の崇高な魂が炸裂する。

 この三位一体が成り立つときに、“新しいアメリカ”へ向けたメッセージは確かに観客のもとへ手渡される。それは何かプレゼントと呼ぶにはラッピングさえされていない、あまりにもゴツゴツとした産物で、素直に「ありがとう」とは言い難いものかもしれない。しかし『フィクサー』がここで完結してしまっては意味が無い。これはむしろ“火種”となるべき作品だ。

 この映画は終点ではなく、始点に過ぎない。扉は開かれている。そこを押し開けて現実世界と果敢に対峙していくのは、他でもない観客自身の尊い役回りなのだ。

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フィクサー
監督:トニー・ギルロイ
出演:ジョージ・クルーニー、ティルダ・スウィントン、トム・ウィルキンソン
(2007年/アメリカ)ムービーアイ
4月12日みゆき座ほかTOHOシネマズ全国ロードショー

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2008年4月 5日 (土)

『クローバーフィールド/HAKAISHA』

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『クローバーフィールド/HAKAISHA』です。

極限状況でカメラが果たす最後の役割とは…

“かつてセントラルパークだった場所”で見つかったハンディカメラと、そこに納められていた衝撃的な映像…。この針の穴のように極細な視点によって、NYで起こった未曾有の惨事を追体験する「擬似パニック・ドキュメンタリー」。圧倒的な情報不足の中で自由の女神、ブルックリン橋、セントラルパークが目の前で次々と破壊され、炎と粉塵の向こう側にチラリと見える“すべての元凶”には身が凍りながらも大爆笑!日本人の誰もが“あの映画”を思い浮かべるはずだ。また、さすが「LOST」のJ.J.エイブラムス製作だけのことはあり、極限状況でフル稼働する“カメラ”についての深い哲学性をも感じさせる。話題ばかりが先行しているが、これはかなりの力作かつ怪作だ。

●『クローバーフィールド』に関する井戸端会議はこちら

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クローバーフィールド/HAKAISHA
製作:J.J.エイブラムス
監督:マット・リーヴス
出演:リジ-・キャプラン、ジェシカ・ルーカス、T.J.ミラー、
マイケル・スタール・デイヴィッド、マイク・ヴォーゲル
(2007年/アメリカ)パラマウント ピクチャーズ ジャパン
4月5日よりTOHOシネマズ六本木ヒルズ他全国ロードショー

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2008年4月 3日 (木)

『パーク アンド ラブホテル』

 「その公園は、ラブホテルの屋上にある」

 きっとこのワン・アイディアの創出をきっかけにストーリーが広がっていったであろう『パーク・アンド・ラブホテル』は、先のベルリン国際映画祭で最優秀新人作品賞に輝いた。これは新人監督のビギナーズラックなどでは決してない。熊井出監督の確かな映像手腕は冒頭から落ち着いた色調のままストーリーを純化させ、観客を不思議な手触りの世界へと引き込んでいく。

 舞台は新大久保にあるホテル街。

 屋上に公園を乗せたラブホテルはその一角にある。ビル郡の上空に浮かぶまるで空中庭園のような公園には日々たくさんの人々が安らぎを求めて集まってくる。退職後の大人たち、学校帰りの子供たち、楽器を持ち寄ったジプシー風のミュージシャンたち。すぐ真下で大人たちの情事が繰り広げられているなんて誰も気にしない。そこにはいつも緩やかな時間が流れている。

 オーナーはりりィ演じる“艶子さん”。いつも無表情で飄々と振る舞う彼女は、かつて夫と共にこの不思議なホテルを建造し、今ではひとりで切り盛りしている。そんな彼女のもとへ「オムニバス」の形式にのっとって3人の女性が訪れる。家族を捨てた父親を探す少女、月までの距離をウォーキングしようと躍起になる主婦、関係を持った男の精液を緻密に採取する謎の研究者…彼女たちはそれぞれ艶子さんのラブホテルで充分な休息時間を経て、そしてまた人生の荒波へと漕ぎ出していく…。

 本作で忘れられないのが言葉を廃したひとときに垣間見せる巧みな映像表現である。なんという純度の高さ。とりわけ少女がポラロイドですくい取った街の風景に思わず涙してしまった。そこには映画ながらに“動かない映像(=スチール)”が映し出される。何気ないが、大切な風景。言葉が無くとも、その連なりがおのずと少女の心を物語ってくれる。

 あえてマジックアワーに撮影された公園シーンも深い陰影を残す。日の入り前、空が魔法のようにオレンジ色に染まる数分間、艶子さんが利用者に「おうちへかえりましょう」と呼びかける。皆が重い腰を上げて帰途に着く。誰もいなくなった公園。沈んでいく夕日。一息ついて、パッと街灯にあかりがともる・・・。艶子さんにとってその単調な繰り返しが実は毎日を推し進めていくための原動力であることに気づかされる。少女のポラロイド写真のように。主婦の長い長いウォーキング記録のように。研究者のひそやかな研究のように。

 と、これら宝石のような描写の数々に目を奪われながら、僕はふと、この新感覚の人間ドラマに、“ロードムービー”を当てはめながら観ている自分に気がついた。

 そもそもラブホテルとは「数時間何千円」で休憩を求める場所。3人の女性たちはまるで長距離に疲れ果てふと立ち寄った宿場で羽根を休める“旅人”のようでもあり、全く移動しない艶子さんはホスト役として彼女たちをつなぐ媒介者ということができるだろう。

 艶子さんは相手の顔を直視することはほとんどない。それはロードムービーにおいて運転手と同伴者がずっと前方を見つめて平行な視線を保っているのに似ている。艶子さんはいつもその独特の目線から率直で重みのある言葉の数々を生み落とし、歩けなくなった女性たちを少しずつ別の風景へと導いていくのだ。

 そんな艶子さんがラスト近くで、ひとりの旅人にグイと顔を真横に向けさせられるシーンがある。目と目が見つめあい、ふたりは初めて向かい合って言葉を交わす。徐々に明かされる事実。なぜこんな生活を続けているのか。どうしてこんなホテルを作ったのか。そしてなぜ彼女は一人ぼっちになってしまったのか。

 なるほど、不動の人だと思われていた艶子さんは、実はいちばん長い距離をたったひとりで歩んできた旅人でもあったのだ。そして3人の女性との交流によって彼女自身の心も知らず知らずのうちに大きな心の移動を遂げている。かくも人間は旅人なのであり、進む人、留まる人、すべてがみな旅人なのだ。

 『パーク・アンド・ラブホテル』は、PFF(ぴあフィルムフェスティバル)スカラシップ作品ならではのミニマリズムが完璧に機能した作品と言える。ジャンルは異なるものの、構造的にはどこか李相日監督の『BORDER LINE』(これも同じくロードムービーという形態だった)をも想起させるところがあり、低予算の中で世界と自分をがむしゃらに衝突をさせようとする映画作家としての気概のようなものが伝わってきて観る者としての喜びを感じずにはいられなかった。 

 熊坂出という才能はこれからも人生の長い長い道のりを克明にフィルムに焼き付けていくことだろう。活躍の楽しみな新人監督がまたひとり現れた。

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パーク アンド ラブホテル
監督:熊井出
出演:りりィ、ちはる、神農幸、梶原ひかり
(2007年/日本)マジックアワー
4月26日よりユーロスペースにてGWロードショー

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2008年4月 2日 (水)

『うた魂♪』

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『うた魂♪』です。

歌うこととは、人間にとって原初的なカタルシスなのだ。

青春ムービーは数多くあれど「合唱」をフィーチャーしたものは少ない。そのスキマ的なアイディアと和製コメディのユルさを、田中誠的な独特の空気感で融合させたのがこの映画。歌うことに臆病になった女子高生がバンカラ(死語)な男子校合唱部と出逢うことで再び情熱を取り戻していく。序盤、夏帆のホンワカぶりはかなり暴走気味だが、歌えて踊れて演技もできるゴリが豪快な笑いを放出し、最後はやっぱり“あの人”が決めてくれる。「人が真剣な時って、かなり顔が変」「でもそんなことに構ってられない!」という青春特有の突破口もテーマとして巧い。合唱部出身の僕としては合唱コンクールの特殊な雰囲気や舞台裏なども隠れた見どころかと。

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うた魂♪
監督:田中誠(『タナカヒロシのすべて』)
出演:夏帆、ゴリ、薬師丸ひろ子、石黒英雄、
徳永えり、亜希子、岩田さゆり
(2007年/日本)日活
4月5日よりシネクイント、シネ・リーブル池袋、新宿ジョイシネマほかにて全国ロードショー

『天然コケッコー』300文字レビューはこちら

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2008年3月31日 (月)

『スパイダーウィックの謎』

 すべてのファンタジーが『ロード・オブ・ザ・リング』や『ハリー・ポッター』のように超大作である必要性はない。むしろファンタジーとは人間の日常に隣接したものであり、その意味でもたった96分という上映時間ながらその箱庭的な世界観を器用に確立させた『スパイダーウィックの謎』はなかなか侮れない作品である。子供向け番組を多数制作するニコロデオンの提供ではるが、子供の付き添いで劇場を訪れたお父さんも、おお、意外と楽しめるじゃん、と子供以上に没入してしまうことも少なくないだろう。

 舞台となるのはオバケでも出てきそうな古びた屋敷。

 むかし大叔父さんが住んでいた不気味な屋敷に4人の家族が越してくる。そこに父親の姿はない。母親と、姉のマロリーと、双子の男の子ジャレッド&サイモンだけ。どうやら両親の関係がうまくいっていないことは子供たちもなんとなく気づいているようだが、ジャレッドだけはまだその事実を受け入れられずにいる。

 しかし少年期の悩みとファンタジーほど相性の良いものはない。新生活に踏み切れず、ふて腐れる彼の前にさっそく冒険の扉が開かれる。足を踏み入れた屋根裏部屋で不思議な書物を発見したのだ。表紙には「決して読んではいけない」との文字。ロウでしっかりと封印されている。でも少年の好奇心は止められない。勢いに任せて封印を解くジャレッド。その瞬間、あたりにブワッと強い風が吹き荒れた。屋敷の周りで何かが変わり始めていく。

 書物の中身は屋敷の主アーサー・スパイダーウィック氏が著した“妖精の研究”だった。幾種類にも及ぶ妖精たちの弱点をも網羅した研究書は多くの妖精たちにとって脅威以外の何物でもない。案の定、妖精界の支配をもくろむ獰猛な種族がさっそく書物の強奪に乗り出してくる。と同時に、屋敷では長年スパイダーウィック氏に仕えてきた年寄り妖精が登場。彼の魔法にかかるとジャレッドにも妖精の姿が見えるようになる。そしてふと窓の外を見やると、そこには獰猛な妖精たちが群れを成して攻め込んでくる姿が。いまこの不思議な書物をめぐって、スパイダーウィック家と獰猛な妖精たちの戦いが幕を開けるのだった…。

 主演は『ネバーランド』でおなじみ、フレディ・ハイモア君。早いものでもう16歳。けれど、開始早々おかしなことが発生した。双子の兄弟のどちらがハイモア君なのかわからないのだ。髪型も性格も対照的なこのふたり。どうせ双子の内で登場回数の多い方が彼なのだろうと決め込んでいたら、あとで資料を読んでビックリ。なんてこった、ハイモア君は一人で二役を演じていたのだ。双子が同時に出演するシーンも数多い。現代の技術をもってすればごく簡単なことなのかもしれないが、僕みたいに気が付かなければそのままスルーしてしまうほど、とてつもなくナチュラルな映像処理が施されている。

 そして本作の脚本にあの名匠ジョン・セイルズの名を見かけてこれまた驚いた。テレビ、映画を問わず、大人向けの重厚な作品を手がけてきた彼の功績なのか、本作はファンタジーの積み上げ方にいっさい破綻がない。そして少年が「父親の不在」を乗り越える成長物語と、自ら書物の謎を解き明かしていく冒険物語とを見事にシンクロさせるという、およそファンタジーの常套手段と言われる部分を丁寧にきっちり描ききる。こういう細かな分野での得点率の高さが、トータル的にも手ごたえ十分のクオリティへと導いているのだろう。

 徐々に結束していく家族、ニック・ノルティが声をあてた無駄にデカイ妖精(怪物?)、フィル・ティペット率いるティペット工房&ILMが生命を吹き込んだアナログ感たっぷりの妖精たち。そして最大の謎…個性あふれるアーサー・スパイダーウィック大叔父さんにも注目したい。

 彼を演じているのは『グッドナイト&グッドラック』でアカデミー賞に輝いた名優デヴィッド・<良い声>・ストラザーン。あの低音で深みのある声を聞いただけで作品の格調がひときわ深まりを見せるのは間違いない。しかも今回のストラザーンときたら、妖精博士としてかなり飄々とした天然キャラを披露する。ついこの前、筋金入りの冷徹さで『ボーン・アルティメイタム』のジェイソン・ボーンを追跡していたなんて想像もつかない相貌だ。かくも本作は大人好みのいぶし銀の職人たちのチカラで彩られている。

 前々から「期待作!」との呼び声が高かった作品というわけではないし、それほど派手目な作品というわけでもない。でもだからといってスルーしてしまうのはあまりに勿体ない。『スパイダーウィックの謎』は小品ながら子供向けにしては見事なまとまりを見せた、“職人的ファンタジー映画”といっても過言ではない。

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スパイダーウィックの謎
監督:マーク・ウォーターズ
出演:フレディ・ハイモア、サラ・ボルジャー、メアリー・ルイーズ・パーカー、
ジョーン・プロウライト、デヴィッド・ストラザーン、ニック・ノルティ
(2007年/アメリカ)パラマウントピクチャーズジャパン
4月26日(土)日比谷スカラ座ほか全国ロードショー

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2008年3月29日 (土)

『恋の罠』

 日本では韓流ブームも過ぎ去り、『シュリ』のハン・ソッキュも今や一昔前の映画スターのように思えてきた。そんな彼が装いも新たに珍妙な役どころを情熱的に演じきる歴史喜劇、それが『恋の罠』だ。韓国では公開15日間で250万人が観たという、大ヒットを記録している。

 舞台は李朝の宮廷。なるべく人とは争わない、温厚かつ生真面目、かといって他になんの長所も見当たりそうにない官吏ユンソが思いもかけず「春本」に出会うことによってそのアンダーグラウンド文化に野心をたぎらせていく。ユンソは仕事もそっちのけで「画期的な春本とは…?」と悩みに暮れる。やがて努力の甲斐あって、彼の著作は貸し本屋を通してどんどん民衆に浸透。でも後一歩のところでヒットチャートNO.1には及ばない。う~ん、何が何でも一番になりたい!!…となると、あとは挿絵か。

 これまで春本がその具体的なイメージ(絵)と手を組むことはなかった。いやむしろそれは「あまりに過激すぎる」と恐れおののく所業だった。しかしもう誰にもユンソは止められない。彼は圧倒的な絵の巧さを誇る宮廷内のライバルにこの企てを打ち明け、コラボして最高の春本を作ろうぜ!と強引にアングラ世界へと引きずりこむ。ここに最強の春本タッグが誕生するのだが…。

 本作で面白いのは、“春本の革命期”がどこか現代と繋がっているってことだ。返却されてきた貸本には好意の落書きが多数書き込まれてある。「最高でした!」とか「次回作も期待してます!」とか。結果、作者はそこからたくさんの意欲を得る。温厚な主人公をここまで過激に走らせるのも、こうしたコール&レスポンスの賜物だ。そして編み出された革新的なアイディアが「文章だけじゃつまらないから挿絵を入れよう!」だったことも、もはやこのストーリーが<インターネット>をモチーフに構成されているのは明らかだ。いずれ主人公がお妃さまとのランデブーを自作でノベライズしてしまうのだって、もはや<ブログ連載>に近い。

 この歴史的スキャンダルがどこまで本当の話なのかわかりゃしないが、でもひとつ確実にいえるのは「歴史は繰り返す」ということであり、僕らが日々ついつい何かに熱中してしまう過程と見事に共通するものがある。とりわけ作家とイラストレーターがいろんな卑猥な体位を考案しながらふたりしてプロレスみたいになってしまう状況にはもう呆れ顔を通り越して感動さえ覚えてしまう。彼らの少年のような情熱が有無言わさず僕らの琴線に触れるのである。

 神妙になったり、宦官の悲しさが綴られたり、拷問を受けたり、恋の行方が危ぶまれたりと、中盤とてつもないダークサイドに転がっていく面も多いのだが、この映画の根底にあるのはやっぱり「何がなんでも表現したい!」という純粋な欲求であり、その情熱の衣を身にまとったとき、のび太くん並みにとりえのなかった彼はいつしか果敢な挑戦者となっているのである。もちろん同じ表現者としてキャスト&クリエイターたちの手腕にも歴史上の人物キム・ユンソへの多大なリスペクトを感じさせる。

 キン肉マンは額に「肉」の文字でおなじみだが、ハン・ソッキュがそれにも増してアヴァンギャルドな文字を額に刻んではしゃぎまわる姿に観客はこの映画の本気度を思い知ることだろう。

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恋の罠
監督:キム・テウ
出演:ハン・ソッキュ、イ・ボムス、キム・ミンジョン、オ・ダルス
(2006年/韓国)エスピーオー
4月5日より、シネマート六本木、シネマート新宿、シネマート心斎橋ほか全国ロードショー

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2008年3月28日 (金)

『パラノイドパーク』

 スクリーンに大写しになる少年の表情、突如鳴り響くディズニーにも似たおもちゃ箱的な音楽、滑走するスケートボード、表紙に“パラノイド・パーク”と記された一冊のノート。

 ガス・ヴァン・サントという名を耳にして『グッドウィル・ハンティング』や『ドラッグストア・カウボーイ』のような作品を思い出すことは少なくなってきた。代わりに僕らの記憶によみがえるのは『ジェリー』『エレファント』『ラストデイズ』といった、およそエンターテンメントの主流からは一線を画した、でもだからこそ一部のファンから熱狂的な支持を集めるアーティスティックな作品群ということになるだろう。

 そこにはストーリーラインを背景へと押しやり、登場人物の歩んでいく先行きの知れない道程を淡々と見つめ続けねばならない、観客にとってはまるで修行のような時間が刻まれている。被写体となった若者たちが次にどんな行動をとるかなんて露ほども分からない。彼らと僕ら(観客)の間に共感など起こり得ないと断言できるほど、カメラと被写体との間には同調することを許さない隔たりがあるように思う。そしてその距離感こそが、独特の透明感となって眩いばかりの無機質な空間を作りあげていたのではないか。

 しかしカンヌ映画祭で60周年記念特別賞を受賞した『パラノイド・パーク』ではその関係性が大きく変わった。オープニングでポートランドにかかる橋の一日がクイックモーションで映し出された直後、本作は16歳の主人公アレックスの手に委ねられることになる。彼がノートの表紙に記した“パラノイドパーク”の文字。どうやらこれから始まる本作は、このノートを映像化したもの、ということらしい。つまりアレックスの独白録というわけか。

 ボイスオーバーでアレックスの胸のうち(ノートに記された言葉)が聞こえてくる。数日前の自分の姿をおぼろげに述懐していく少年。そこに映像がかぶさっていく。ハンディカムが彼の姿を追い、そして揺らぐ。カメラの流れ、動き、揺らぎ、そのすべてがアレックスの心理とシンクロしているような奇妙な映像体験が去来する。つまり、いま目の前でうごめくアレックスを、ほかでもないアレックス自身がじっと見つめ続けているような、一言でいうならば“幽体離脱的な”映像が結実しているのである。

 映画に対して“めくるめくストーリー”を求める人にとって、この映像表現は「どーでもいい」と映るものかもしれない。でも一方「カメラが映し出すもの」について常に真摯な熟考を重ねている人にとってはヴァン・サントの試みがとても野心的なものとして輝いて見えるだろう。またそこには『サイコ』以来のコラボレーションとなる撮影監督クリストファー・ドイルの功績を認めざるをえない。

 “パラノイドパーク”は単なるノートのタイトルというわけではない。アレックスが仲間とともに訪れるとある場所の名前でもある。そこは地元に住む大勢のスケーターたちが集まる聖地のような練習場だ。アレックスは鍋型リンクの淵からボーダーたちの様子を眺めやる。滑走するスケートボード。後ろからカメラがそれについて追いかけていく。スローモーションで滑走してはジャンプするボーダーたち。その振り子運動のような動きにカメラはユラユラと食らいついていく。しかしスケートボードの動きは速い。やがてカメラは息切れし、立ち止まり、途方に暮れたように四方に視線を投げかける(これは淵で眺めるアレックスの視線とも取れるし、あるいは実際に滑走したアレックスが途中で転倒し初心者ぶりを露にした姿とも想像することができる)。

 問題はこの後だった。ひとりきりで訪れたパラノイドパークで、彼はひとつの凄惨なアクシデントに見舞われる。年上のグループと一緒に戯れるさなか、思いがけなくも人がひとり死んだのだ。アレックスは必死で逃げる。翌朝の新聞には事件の詳細が記されている。これは夢か幻か。現実を受け入れられないアレックス。だが、彼は翌日も何気ない素振りで登校し、刑事の事情聴取にも平気な顔で嘘のアリバイを口にする…。

 この映画はべつに少年犯罪を糾弾しようというものではない。むしろ不測のアクシデントに見舞われたアレックスがどのような衝撃でもってそれを受け止め、どのようなカタチで世界と折り合いをつけようとするのか、その“心の動線”を映像詩として紡いでいくことに主眼が置かれている。少年の心の波形に生じた大きな動揺をカメラが繊細に掬い取っていくのである。

 アレックスには他にも小さな動揺をたくさん抱えている。父母は離婚調停中。もうすぐ訪れる家庭崩壊を前に、彼は平気を装うが、小さな胸を痛める弟は毎食時ごとに嘔吐を繰り返す。ガールフレンドの問題も浮上する。性に対して積極的な彼女は、はやく初体験を済ませてしまいたいと機会をうかがっている。友人たちとスケートボードで遊びまわりたい彼にとってはその束縛がうっとおしくてしょうがない。

 それら“小さな動揺”と“大きな動揺”の融合がアレックスの心に重く圧し掛かる。学校の場面では奇妙なタイミングでディズニー調のズンチャカした音楽が鳴り響き、少年の心に何やらアンビバレントな何かが巻き起こっていることを予兆させる。大人の目線で考えれば、彼は目の前の現実から逃げ切れるわけがない。

 彼はいま、自分の現状を充分に把握できずにいる。いまこの瞬間をやり過ごせば、夢見る明日がきっとやってくると信じているかのようだ。しかし時間の経過とともに彼は何かに気がつき始める。凄惨な事件のイメージが頭に去来する。そしてひとりの少女と出会うことによって、彼の目にはたどり着くべき出口がおぼろげながら見え始める。そうやっていま、こうしてノートに告白をつづりはじめる彼の姿がある。自分の体験を文字にすることで世界と客観的に折り合う術を必死に探ろうとするのである。

 結局、彼がどうなったかという結末はこの映画でいっさい描かれない。それは観客に委ねられていると言ってもいいし、そもそもストーリー的な結末など、ヴァン・サントにとって興味のないものであると言ってもよいだろう。

 ただ、『パラノイドパーク』が僕をあまりに驚かせたのは、先ほどまで毎食時ごとに嘔吐していた幼い弟が、いまあどけない笑顔を見せながら、映画のワンシーンについてアレックスにとうとうと語って聞かせる場面だった。このシーンを取り巻く空気のなんと柔和なことか。それに耳を貸すアレックスの表情もどことなく優しい感じがする。そして何より、ここで語られる映画というのが、あの“Napoleon Dynamite”なのだ。弟が語るのは、主人公ナポレオン・ダイナマイトの祖母がボーイフレンドと砂漠へ出かけ、そこでバイクを転倒させて骨折するというシーン。この映画をご存知の方なら、老婆の身体が砂漠に投げ出されバイクだけが空しくジャンプを決める滑稽な描写がまるでパラノイドパークのスケートボードの滑走とシンクロして見えてくることだろう。これに連なる、アレックスが少女の自転車の後ろにつかまりながら疾走していく描写にも笑いが漏れるかもしれない。これもまた“NAPOLEON DYNAMITE"からの引用だからだ。

 映画が収束しようとしているさなかに唐突にもこのコメディ映画のエピソードを織り交ぜてみせる不思議。しかしここでは先のディズニー調の音楽のようなアンビバレントな奇抜さは微塵も感じない。少年の心が何か開かれた出口へと導かれているような気配が忍び込み、カメラに降り注ぐ光がとても眩く感じられる。彼を待ち受けているのは暗闇かもしれないのに、なんだろうこのすがすがしさは。

 結局彼はノートの表紙に“パラノイドパーク”とタイトルを記す。そこは彼を魅了したスケートボードの聖地の名であり、多くのボーダーがいくつもの動線を交錯させながら滑走する人間のジャングルであり、『ジェリー』でふたりの若者が放り出される砂漠(もしくは『NAPOLEON DYNAMITE』でおばあさんが転倒する砂漠)をも彷彿とさせ、あるいはアレックスが数日間にわたって放浪する“最後の少年の日”の象徴なのかもしれない。

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パラノイドパーク
監督:ガス・ヴァン・サント
出演:ゲイブ・ネヴァンス、テイラー・モンセン、ジェイク・ミラー
(2007年/アメリカ=フランス)
東京テアトル=ピックス
4月12日よりシネセゾン渋谷ほかにて全国順次公開

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2008年3月25日 (火)

『MONGOL モンゴル』

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『MONGOL モンゴル』です。

言語を超えて“気迫”がぶつかり合う越境プロジェクト

浅野忠信がチンギス・ハンを演じ、アカデミー外国語映画賞の候補にもなった歴史大作。父の暗殺、仲間の裏切りによって過酷な幼少期を強いられた主人公がやがて愛妻を得て徐々に勢力を拡大していく壮年期までを、角川春樹製作の『蒼き狼』とほぼ同じストーリーで描く。驚かされるのはその芸術性だ。俳優、クリエイターともに各国の精鋭が集結しただけあり、激しい戦闘を内側から捉えたカメラワーク、刻々と表情を変える大自然のビジュアルは見ごたえ充分。しかも登場人物は目元が朝青龍っぽい人ばかりで驚かされる。歴史モノの常で“省略の強引さ”を感じる部分もあるが、エンディングに流れるホーミー・メタルのような怒涛の勢いは確実に伝わってくる。

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MONGOL モンゴル
監督:セルゲイ・ボドロフ
出演:浅野忠信、スン・ホンレイ、クーラン・チュラン
(2007年/ドイツ=ロシア=カザフスタン=モンゴル)
ティ・ジョイ=東映
4月5日より全国ロードショー

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2008年2月20日 (水)

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』

アカデミー賞 主演男優賞、撮影賞、獲得!

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』です。

野心と愛憎とオイルにまみれた、怒涛の2時間36分!

まさに大胆不敵。『マグノリア』で現代の最重要映画作家のひとりとなったPTA(*)が挑むのは、一人の石油採掘師の不気味なまでに破天荒な人生だ。黙々とカットを繋ぐ序盤では確かな優しさを垣間見せていたデイ=ルイスが、やがて石油に黒くまみれ、愛憎の表裏一体化した怪物のように変わっていく。忍び寄る父と子の確執、そして兄と弟の猜疑心。物語が暗黒色を強める中、時折フラリと現れる牧師役ポール・ダノには要注意だ。穏やかな表情の裏側にとんでもない狂信を秘め、観客を仰け反らせること間違いなし。人はアメリカン・ドリームの前でかくも豹変する生き物なのか。これは石油をめぐる現代風刺でもあり、またそれを超えた壮大な人間ドラマでもある。

(*)もちろんポール・トーマス・アンダーソンの略

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ゼア・ウィル・ビー・ブラッド
監督:ポール・トーマス・アンダーソン
出演:ダニエル・デイ=ルイス、ポール・ダノ、ケヴィン・J・オコーナー、
キアラン・ハインズ、ディロン・フレイジャー
(2007年/アメリカ)ウォルトディズニースタジオモーションピクチャーズジャパン
4月26日よりシャンテシネほか全国順次ロードショー

本作の原作であり、長らく絶版となっていたアプトン・シンクレアの「石油!」(1927年発刊)が復活!。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』よりも更に長い大河ドラマを繰り広げています。なお、本作のサントラを手がけたのは、なんとレディオヘッドのギタリスト、ジョニー・グリーンウッド!不協和音と現代音楽をかき混ぜたような不気味な音色が圧倒的な映像世界を見事に盛り上げています。

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