『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』です。

このコメディを腹の底から笑える時代はやってくるのだろうか?

80年代の冷戦期、女好きのお気楽議員チャーリーが、たまたまTVでソ連のアフガニスタン侵攻のニュースを目撃。その荒廃した街並み、子供たちの表情に衝撃を受け、議会やCIAを通じてあの手この手でアフガン兵の支援に動き出す!…というハリウッドならではの豪華キャストによる王道コメディ。トムとCIAエージェント(!)役のシーモア・ホフマンの掛け合いなんて抜群に面白いが、でも笑ってばかりはいられない。だって彼らの大作戦が何の因果か20年後の現代に耐え難い痛みとして跳ね返ってきたのだから。こう言うとコメディの可能性を狭めることになるが、いまは過去の一点を祝福するよりも、この耐え難いジレンマと果敢に対決する映画が見たい。

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チャーリー・ウィルソンズ・ウォー
監督:マイク・ニコルズ
出演:トム・ハンクス、ジュリア・ロバーツ、フィリップ・シーモア・ホフマン
(2007年/アメリカ)東宝東和
5月17日より全国ロードショー

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『マンデラの名もなき看守』

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『マンデラの名もなき看守』です。

南アフリカ現代史は、塀の中でもリアルタイムに動いていた。

アパルトヘイト政策下の南アフリカ。反政府活動家として逮捕されたネルソン・マンデラと彼の監視を命じられた看守が数十年に渡って少しずつ心を通わせていく。マンデラ本人によって伝記映画の製作が許可されたのはこれが初。その重圧をものともせず、地道な人間描写に定評のあるビレ・アウグストは知られざる塀の中の友情を丹念に描き込む。そして気になるマンデラ役には…デンゼル?モーガン?いやいや、なんとあのTVシリーズ「24」の黒人大統領役、デニス・ヘイバートが大抜擢!森のクマさんのような愛らしさもさることながら、言葉を交わした者すべてを感化させる『グリーンマイル』もビックリの特殊な人物像に史実としての十分なリアリティを付与している。

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マンデラの名もなき看守
監督:ビレ・アウグスト
出演:ジョセフ・ファインズ、デニス・ヘイバート、ダイアン・クルーガー
(2007年/仏=ベルギー=伊=南ア)ギャガ・コミュニケーションズ
5月17日よりシネカノン有楽町1丁目、シネマGAGA!ほか全国順次ロードショー

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『丘を越えて』

 『ALWAYS 三丁目の夕日』が戦後日本の復興期を熱く彩ったものだとしたら、『丘を越えて』で描かれるのはその間逆のベクトルを持ったもうひとつの黄金期だ。それは、

 「大正デモクラシー」

 中学校のとき、語感の面白さだけで一日中ずっと唱えていられたこの言葉。でも実際はそれがどんな空気を持っていたのか、どんな手触りでどんな味がしたのか多くの者が知らない。関東大震災という悲劇を引きずりながら、ようやく精神的な自由が叫ばれるようになってきたこの束の間の楽園はいったいどのようなものだったのだろう。

 原作は、いまや東京都副知事となった猪瀬直樹の「こころの王国」。西田敏行演じる文豪・菊池寛と池脇千鶴が演じるその私設秘書との交流を通じて、大正デモクラシー期の空気、そして「生活第一、芸術第二」としてあくまで庶民路線を貫いた菊池文学の真髄にフィクションを織り交ぜながら迫っていく物語だ。

 花街が近い下町。至るところに赤が映える。たしか学生の頃に見た日本史資料集の大正期はその奇抜な色使いが薄気味悪かったが、こうやって実写でみると幻想的ですらある。物語は池脇演じる葉子が知人の紹介でとある出版社を訪ねるところから始まる。いつかは女性文士になれるかもと胸を高鳴らせる葉子。そして着いた先は創立したばかりの文芸春秋。社長はあの文豪、菊池寛だ。

 西田敏行演じる菊池は、その体型といい、顔立ちといい、まるで彼の魂がそのまま現代に蘇ったかのよう。腕時計は2つはめ、腰紐はズルズルと地面を這い、将棋をしながら自分の持ち駒をピーナッツと一緒にポイポイッと口にほうばってしまったりと、かなり天然というか、豪快というか。けれど同時にとても繊細な部分も持ち合わせていて、時折シュンといじらしいほどにしおれたり、哀しい世相にワンワンと泣き崩れたりもする。ちなみに西田は歌がとても上手いが、実際の菊池は死ぬほど音痴だったとか。

 葉子はこんな菊池の秘書となり、関東大震災と昭和の戦乱期という2大悲劇の真ん中にポッカリと空いた“大正”という楽園において、菊池のナビゲーションのもとにモガ・モボを地で行く華麗なる自由を胸いっぱいに満喫する。そして時おり、文芸春秋の社員であり在日朝鮮人である美青年(西島俊之)と共に、菊池寛の作風について文学探偵のような読み解きを進めていく。「生活第一、芸術第二」を謳った菊池文学。どうやらその根底には日本文学の神様・夏目漱石への根の深い反動があるらしいのだが…。

 確かに『丘を越えて』は雲の上の楽園のような物語だ。しかし僕らは知っている。この楽園もほんの束の間のものであったことを。原作では登場人物たちの後日談にまで触れてあり、大正期の華々しさはこのあと宴の後のようにフウッと掻き消されてしまう。いつしか菊池も戦意高揚のために筆を振るい、多くの文士たちを戦場へ送り、戦後にはその戦争責任さえも問い正され、すっかり精気を失ってしまったかのようだったとか。

 けれど僕は『丘を越えて』を単なるノスタルジー映画と捉えたくはない。むしろ、今ではすっかり忘れ去られてしまった“丘の向こうの風景”へと観客を誘う「招待状」として、同時代性をもって受け止めたい。哀しくも9.11をきっかけに国際的な憎しみ合いの渦中へと身を投じてきた現代人。それは「繊細過ぎる時代」でもあり、同時に「過激すぎる時代」でもある。たとえ出口の見えない時代であっても、そこに丘があることを精一杯想像し、その向こうに拡がる景色がきっと素晴らしいものであると信じたい。それが人間の性(さが)ってもの。その領域へと観客をいざなうのが他ならぬ現代に生を受けた映画作品の使命だと僕は思っている。

 ではこの映画の最終花火はどんな夢を見せてくれたか?

 それは驚愕の、

 「あまりに朗らかなクライマックス」

 ・・・だった。

 直面した瞬間、思わず苦笑してしまった。まるで負け戦にあえて挑んでしまったかのような潔さ。でもそんなに悪い気はしないのは、作り手の気持ちがとてもストレートに伝わってきたから。このシーンに高橋伴明監督の祈りに似た想いがあふれているように感じられたのは僕だけではないはずだ。

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丘を越えて
監督:高橋伴明
出演:西田敏行、池脇千鶴、西島秀俊、余貴美子
(2008年/日本)ゼアリズエンタープライズ/ティ・ジョイ
5月17日よりシネスイッチ銀座、新宿バルト9他にてロードショー

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『ランボー 最後の戦場』

 アジアの田園風景。水田をかき分け、兵士がおもむろに何かをばら撒いている。その一個が着水した瞬間に凄まじい水しぶきを上げる。手榴弾だ!岸には銃を突きつけられた幾多の村人たち。将軍の合図で地獄のダッシュが始まる。彼らは水田を突き進み手榴弾に触れずに対岸まで辿り着かねばならない。前方には手榴弾、背後には兵士。彼らは全力で走り出す…ひとりが弾を踏む。瞬時に人間が真っ赤な水風船と化して弾け飛ぶ。行くも地獄、留まるも地獄。ゲーム感覚で繰り広げられる虐殺風景。立ち止まって動けなくなる村人たち。背後から一斉射撃が降り注ぐ。結局彼らには死ぬ運命しか残されていなかった…。

 かくも壮絶なシーンから幕を開ける『ランボー 最後の戦場』はこれまでのシリーズとはかなり雰囲気が違う。まるで通過儀礼のごとく次々と提示されるバイオレンスシーンの数々はもはやエンターテインメントとは一線を画した常軌の逸し方で観る者の心をえぐる。しかしこれは恐らく事実なのだ。世界のどこかで起こっている真実。82年の誕生以来アメリカ、ベトナム、アフガニスタンで転戦を繰り広げてきた『ランボー』シリーズ。それは殺し合いをやめるための戦いだったはずだ。しかし哀しいかな、人間の殺しあう性は有史以来まったく変わらない。

 アフガンでの戦いから20年。ジョン・ランボーが最後の戦場として選んだのはミャンマーのジャングル地帯。(ちなみに映画の中では「ビルマ」と呼ばれるが、これはアメリカが軍事政権下で成立した「ミャンマー」を容認していないから。では日本政府は容認しているのか…?そこら辺に日本政府の非常に曖昧かつダークな姿勢が見え隠れするのだが、それはこの映画とはまた別の話だ。参照→ウィキペディア「ミャンマー 

 タイの奥地でボート屋を営むジョン・ランボーは今やすっかり絶望している。『ロッキー ザ・ファイナル』でロッキーが再起を誓うまでが恐ろしく長かったように、今回のランボーも怒りが頂点に達するまでに時間を要する。その間にも村で虐殺が行われ、人権活動家たちが拘束され、彼らを救うために5名の傭兵部隊が編制されランボーのボートへと乗り込んでいく。

 この5名+ランボー+ガイドの少年で人数はバッチリ。常套手段として『七人の侍』的な展開になるのか、あるいはこちらも壮絶極まりなかった『プライベート・ライアン』のような様相を呈していくのか。巧いやり方はいくらでもあったはずだ。しかし“あらゆる巧い手段”をみすみす手放して、ランボーは思考のタガが弾け飛んだかのように殺戮マシーンへと変わる。もはやアドレナリンも分泌されない。さきほどまで虐殺の限りを尽くしていた敵兵がいまや肉の塊となって崩れ落ちていく戦場の凄惨さを観客に痛いほど突きつける。殺らなければこっちが殺られる。そこには崇高なドラマ性など生じえない。戦場に愛情やぬくもりなど存在しないのだ。人が人を殺すというある種の思考停止状態に、その場の凄まじい臭気さえ伝わってきそうだ。

 「これは観るのに苦痛を伴う映画です」

 来日したスタローンは正直にそう語っている。

 そこまでして軍事政権下の残虐性を告発したかったのか。確かにそれもあるだろう。と同時に彼は、80年代にアクションスターとしてシンボル化されてきた自分自身にひとり決着をつけようとしている。きっと20年間、時代の移り変わりを静かに見つめてきたのだろう。変わり行く破壊の意味、怒りの意味。自らをヒーローからひとりの人間へと帰還させたいとする想い。その実力行使として、いま、伝説としてフェイドアウトすることも可能だった『ランボー』シリーズをハリウッドの虚構性から奪還し、現代性の極地、リアリティの極地へと放り込むことでアップデート&ターミネートを図っているのだ。

確かに苦痛を伴う映画だし、心臓の悪い人は絶対に観てはいけない。僕自身、この映画はもう二度とは観たくないが、このシルベスタ・スタローンの映画人としての意欲には多くの人たちが瞠目すべきだと思う。

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ランボー 最後の戦場
監督・脚本・主演:シルベスタ・スターローン
出演:ジュリー・ベンツ、ポール・シュルツ、マシュー・マースデン、
グレアム・マクダビッシュ
(2008年/アメリカ)ギャガ・コミュニケーションズ
5月24日より日比谷スカラ座ほか全国東宝洋画系にてロードショー

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『ハンティング・パーティ』

300文字レビュー」とは、映画への想いをたった300文字に凝縮させる、とてもお手軽な文系スポーツ。というわけで、今回のお題は『ハンティング・パーティ』です。

怒らせるといちばん怖いのは、実はこいつらかもしれない

手にマイク、肩にカメラ。背には大きく「TV」の文字。世界の激戦地を飛び回り、彼らは命がけでレポートをモノにする…かつてそんな武勇伝を鳴らせた報道コンビがボスニアで再会。湧き上がるアドレナリンを抑えきれず、彼らは鉄壁の守りに囲まれた戦争犯罪人を追いかける旅に出る。『MASH』『フルメタル・ジャケット』のブラックな遺伝子に、『スリー・キングス』的な軽妙さも加味。次第に見えてくる戦争のリアリティ。立ちはだかる世界の不条理。そのジレンマに非武装で立ち向かっていく彼らの底力は物語としてなかなか斬新…と思ってたら、なんとこれらはほぼ実話なのだという。うーん、やっぱりカメラは史上最強の武器なんだな。

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ハンティング・パーティ
監督:リチャード・シェパード
出演:リチャード・ギア、テレンス・ハワード、ジェシー・アイゼンバーグ
(2007年/アメリカ)エイベックス・エンタテインメント
5月10日より、シャンテシネ、新宿武蔵野館ほかにて全国ロードショー

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『最高の人生の見つけ方』

 人間の誰をも待ち構える死―。

 その果てに絶望するか、あるいは前向きに突き進むかで人の一生は変わっていく。

 多くの宗教は「死を見つめること」を発端に数百年、数千年の歴史を歩んでいるが、これらに対し100分足らずの映画作品に一体何が描けるだろう。エンタテインメントは死を緩慢に感じさせる麻薬ではない。ハリウッド映画だって、ときには真正面から死を見つめようとする。もちろんそれには用意周到な布陣と、極上のユーモアが不可欠なわけだが。

 本作『最高の人生の見つけ方』に集結したのは、『スタンド・バイ・ミー』の名匠ロブ・ライナー&米映画界が誇る2大俳優、ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマン。それはとてもシンプルな映画だった。複雑なプロットも無ければ、観る前にいささかの緊張を強いることもない。我々はただブラッと劇場に立ち寄り、数多くの公開作に埋もれたこの映画の邦題を窓口で告げ、客席でただスクリーンのカーテンが開くのを待てばいい。

 映画の中に集中しようと気構える必要はない。隣のお年寄りがビニル袋をガサガサとうるさくったって別に気にしない。何しろスクリーンに映っているのはエキセントリックな“ジョーカー”と“神様”なのだ。最高の俳優たちによる極上のコラボレーションは自ずと向こう側から僕らの心に飛び込んできてくれる。

 ふたりが演じるのは余命幾ばくと診断されたガン患者。性格も社会的地位もまったく違う。健康に生活していたら絶対に出逢うことの無かったふたりは、運命のいたずらで病室の同居人となる。最初は他人行儀な生活が続くが、闘病風景がふたりの距離をだんだん縮めていく。剃髪、そして淡白な毎日。抗ガン剤治療は徐々に苦しさを増す。トイレに閉じ込もり嘔吐。ベッドでのたうち回る。そして新たに突きつけられる無情な診断結果・・・互いの弱い部分をさらけ出したふたりに強がりなんて要らない。気がつくと彼らは人生最後の、そして唯一無二の親友となっていた。

 そしてリストを作成する。死ぬまでにやっておきたい項目を書き連ねる“The Bucket List”ってやつだ。スカイ・ダイビング、カーレーシング、絶景を眺める、絶世の美女とキスする…。いつまでもベッドの上で燻ってはいられない。人生が動に転じていく。彼らはいま、人生最後の大冒険に漕ぎ出そうとしていた。

 同じテーマで、サラ・ポーリー主演の『死ぬまでにしたい10のこと』が思い出される。だがこちらは年齢が何倍も上だ。人生の酸いも甘いも体験し尽くした彼らはごくシンプルに生を謳歌しようとする。これまで病室に停滞していたエネルギーは一気に吐き出され、そのまま距離へ置き換わる。世界中どこにでも飛んでいくバイタリティ。今更ながら湧き出してきたチャレンジ・スピリット。死を前にした彼らに怖いものなど何も無い。

 死に対して守りではなく、攻めに転じながら、ふたりの表情はどんどん少年のように変わっていく。どんな名優も子役と動物には敵わないなどと言うがそれは完全な間違いだ。いまやこのふたりに勝るものなんてあるものか。

 ところで、ふたりはそれぞれ演技のアプローチが少しずつ違う。ジャックは常に声を尖らせて仕掛けるタイプ。モーガンは相手の出方を慎重に見定め、柔軟な吸収力で受け止めるタイプ。かと思っていたら、時折その演技がスイッチする瞬間があって驚かされる。モーガンがふと意固地になり、一方ジャックの表情がシュンと軟化する。演技の応酬だ。このリラックスした雰囲気の中であっても彼らは常に仕掛け、そして仕掛けられている。かつて来日したモーガン・フリーマンは演技についてこう語っていた。

「演技はチェスのようなものだ。うまい相手と対戦しているときはどんどん自分も上手くなっていく」

 本作はまさにその頂上対決。名人戦だったわけだ。

 バックを彩るジャジーな音楽も、それにエンディングに流れるジョン・メイヤーの楽曲“Say”も深い余韻を残す。僕らはずっとにこやかにスクリーンを見つめ続け、気がつけばこの映画の醸し出す雰囲気に泣いている。それは単に哀しいだけの安っぽい涙では到底なく、とても幸福感に満ちた、自分で言うのもなんだが、とても尊い涙だったように思う。

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■関連記事「生ジャック・ニコルソンに感激!」

最高の人生の見つけ方
監督:ロブ・ライナー
出演:ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマン、ショーン・ヘイズ、
ロブ・モロー、ビバリー・トッド
(2007年/アメリカ)ワーナー・ブラザーズ映画
5月10日より丸の内ピカデリー2ほか全国公開

先日14年ぶりに来日したジャック・ニコルソンは「天国まで持っていきたい映画」としてこの3作品を挙げていました。

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『ミスト』

 フランク・ダラポン監督の最新作『ミスト』は、『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』に引き続きダラポンが三たびスティーヴン・キングの原作に挑んでいるからといって、同系色の感動モノと思って臨んでしまうとうっかり鼻血が吹き出しねない。

 人間の持つ良心の深度を測るような作風を得意としてきたこの監督だが、同路線を追究したジム・キャリー主演作『マジェスティック』は力作ながらもヒットに恵まれず、長らく執筆していた『インディ・ジョーンズ4』の脚本はスピルバーグに手放しで賞賛されたものの、その後ジョージ・ルーカスの不評を食らい、あえなくボツ。ここ最近の心境は一面に広がったミスト(霧)そのものだったに違いない。

最新作『ミスト』には、かつて彼の作品で描かれていた良心など存在しない。むしろ『ノーカントリー』や『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のような黙示録的作品といえる。彼はこの映画で、これまでの鬱屈した気持ちを吐き出すかのように「絶望」を描いているのである。

 すべては嵐の過ぎ去った朝にはじまった。主人公が息子と共にスーパーマーケットのレジに並んでいる。すると突如、町の警報がけたたましい音で鳴り響く。街で何かが起こった。通りを駆け抜けていく消防車。身を乗り出して外の様子を探ろうとする買い物客たち。その視界が徐々に白んでいく。霧だ!霧が周囲を覆っている!と、そこへ血まみれになった男が飛び込んできてこう叫ぶ。「霧の中に化け物がいる!みんなそいつにやられてしまった!」それを信じる者。虚言だと耳を貸さない者。平然とスーパーから脱出していく者。やがて彼の証言は具体性を帯びてくる。多くの不気味な生物たちがスーパーの明かりの周りに集結しはじめたのだ・・・

 スーパーが舞台とは、なんと『ゾンビ』的な設定だろう。そこに避難してきた者たちは、とりあえず霧からは守られている。でも裏を返せば周囲には絶望しかなく、内部には延命装置としての食料が盛りだくさんに備えられているということになる。早かれ遅かれ彼らは絶望の目撃者となる。この設定は、カオスと隣り合わせに増長する消費文明のメタファーなのかもしれない。

 この焦燥と緊張のみなぎる限定状況が人間たちに無惨な諍いをもたらす。それは心の中の霧が明けて人間の本性がむき出しになったかのよう。徐々に派閥が生まれ、相手を罵倒し、嘲り合い、そして狂気じみたクリスチャンによる「神の怒りである!」との大演説がぶち上げられ、それに感化された人々が刃物を手に生贄を求める。唯一の聖域だと思われていたスーパー内にもカオスが生じるわけである。よりにもよって人間自身の手によって。

恐ろしい。迫りくる奇っ怪な生物もさることながら、人間の深層心理こそが本当に恐ろしい。時間と共に緊迫の度合いを増していく人間の様子を、まるで虫かごを見つめ観察日記でもつけるかのように冷静に、段階的かつ生々しく描きこんでいくダラボンの底意地の悪さがまた鋭く突き刺さる。これはもしや『マジェスティック』の恨みか。それとも『インディ・ジョーンズ』の腹いせか。

 彼のキャリアの原点にはホラー映画も数多い。『エルム街の悪夢3』や『ザ・フライ2』の脚本を手がけ、初監督作はスティーブン・キングの短編『老婆の部屋』(ただし、この原作「312号室の女」は、病室のベッドで苦しそうに死を待つ母親を安楽死させようとする息子の心象を追った非ホラー、むしろ文学的な香りさえ漂う短篇だった)。スピルバーグの『プライベート・ライアン』ではノルマンディー上陸作戦を下手なホラーよりもよっぽど恐怖に満ちたシークエンスへとリライトした(ただしノー・クレジット)実績もある。

 人々はついにこの男を本気にさせてしまった。人間は覆い隠された裏の表情が現れたときこそいちばん危険なのだ。もう勢いが止まらない。ああ、ダラボン。あんなに善意に満ちた作品を紡いでいたダラボンボン。彼は恐怖の帝王にして友人のスティーブン・キングにまたもや魂を売り払った。手にしたのは傑作短編小説「霧」。いちばん善人そうな顔をしたヤツが拳銃を握りしめたかのような、とにかく最悪の組み合わせだ。

 これは『ミスト』の登場人物にも当てはまる。父親は愛する我が子の「どうして?どうして?」という素朴な疑問に対して常に説明責任を負う。それに息子の切なる期待に対して精一杯の態度で応え続ける責任を負っている。果たしてこの父親は目の前の黙示録的状況を息子にどう説明するのだろうか?想像もしたくはないが、いま世界中の崩れ行く瓦礫の下で、降り注ぐ銃弾や空襲の中で、このような責任を背負わされた父親・母親は意外と数多いことに、ちょっと冷静になってみると愕然とさせられる。

 我々はこの映画の最後に絶望を知る。試写室では「う…ああ…」と声にならない声が漏れていた。たぶん口から魂が抜け出ていく音だったろう。みんな絶望していた。僕も思いっきり絶望した。逆に気持ちいいくらいに。で、エンドクレジットが終わるまで、祈るように“夢オチ”を待っていた。まだか、まだか、まだか。

 そして…

 そのまま場内は明るくなった…

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ミスト
監督:フランク・ダラボン
原作:スティーヴン・キング
出演:トーマス・ジェーン、マーシャ・ゲイ・ハーデン、ローリー・ホルデン、
アンドレ・ブラウアー、トビー・ジョーンズ、ネイサン・ギャンブル
(2007年/アメリカ)ブロードメディア・スタジオ
5月10日より、有楽町スバル座ほか全国ロードショー

『ミスト』の原作は、スティーヴン・キングの短編「霧」。カービー・マッコリー編のモダンホラー書き下ろし短編集「闇の展覧会」に収録されています。(スティーヴン・キングの名で検索するとなかなかヒットしないのでご注意を)

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『幻影師アイゼンハイム』

 映画が始まるや、エドワード・ノートンが一点集中、凄い形相を浮かべて念力を送っている。どうやらそこはステージの上らしい。固唾を飲み見守る観客。やがて彼の目線の先におぼろげな光が姿を現し始める…

 昨年のアカデミー賞で話題になっていた“The Illusionist”という作品が、『幻影師アイゼンハイム』という深夜アニメのような邦題で日本公開となる。今年の夏に『インクレディブル・ハルク』が待機するノートンが相変わらずのペロンとした“なで肩”ぶりで観客をいざなうは、19世紀末、ウィーン。突如現れた幻影師アイゼンハイムが、世界中を旅して習得したという驚愕のマジックで一大ブームを巻き起こしていく。

 そこに現れし、幼なじみの麗しき女性がひとり。長らく秘めていた想いがあふれるアイゼンハイムだったが、彼女はすでに皇太子の婚約者となっていた・・・。とまあ、歴史ラブロマンス、そして後にサスペンスの様相も呈してくる本作だが、僕はむしろこの映画の捉える時代性にこそ焦点をあてたい。

 19世紀末といえば、もうじき科学の時代が間近に迫っている。そんな時の流れを察してか街中では“超自然主義”が最後の花火を打ちあげる。人々は超能力や心霊現象に魅了され、“手で触れられないもの”に強く想いを馳せる。アイゼンハイムのマジックショーはそういった嗜好の観衆たちに拍手喝采でもって迎えられた。どんな頭脳をもってしても解き明かせないトリックの数々。彼はそれがマジックなのか超能力なのか決して種を明かさない。それが彼のカリスマ性をますます助長し、やがて権力をも脅かす強大な影響力を持ち始めるのである。

 イリュージョンVS権力。この対立構造が時代の本質を巧く浮き上がらせる。どちらもこれといった実態がなく、いわゆる“手で触れられないもの”。あるいは「権力とは極めてイリュージョン的なもの」と解釈することだって可能かもしれない。いや、そういってしまえば“映画”だってそもそも光のイリュージョンとして生まれたものなのだから、この映画自体が手品箱のような謎に満ちた存在といっても過言ではない。

 参考までに、おなじイリュージョン映画『プレステージ』に登場した「一流のマジックに必要な3つのパート」を紹介しておこう。

 1つ目はプレッジ(確認)、2番目にターン(展開)、3番目に観客の喝采を一身に浴びる、プレステージ(偉業)。

 これを踏まえて本作を振り返ったとき、その随所に名優ポール・ジアマッティの姿が浮かび上がってくる。『サイドウェイ』で御馴染みのこの俳優、今回は危険分子としてのアイゼンハイムを取り締まる警部役として威厳たっぷり(その中にお茶目な部分も満載)の重厚な演技に徹している。そんな彼が、思いのほかこの映画の“プレステージ(偉業)”とも思える地点において快心の演技を爆発させるのだ。

 「ジアマッティの一人勝ちじゃないか!」

 思わずスクリーンに向かって叫びそうになった。もちろん主役のエドワード・ノートンも素晴らしいのだが、彼はあくまで仕掛ける側の人間。それを受ける側としてのジアマッティはリアクション俳優として最高ポイントを獲得している。僕はこの瞬間にこそ“イリュージョン”の意味を改めて実感させられた。映画がイリュージョンならば、演技だってイリュージョンである。それは手で触れようにも触れられない。僕らの心の中でその重量を受け止め、グッとくるかこないかでその成果が計られるものである。とても感覚的な物言いで申し訳ないが、ジアマッティのあの腹の底から湧き上がるような表情は間違いなく“プレステージ”の極みに達していた。マジックの種明かしなどにも増して、あの場所ではずっと高度なイリュージョンが炸裂していたように思う。
 
 映画&ドラマ好きで知られる作家スティーブン・キングは本作について「繰り返し何度も見たくなる!特別な一本!」(Entertainment Weekly)と評しているらしい。その理由が同じかどうかは分からないが、僕もまったく同じ気持ちだ。繰り返し見るたびにポール・ジアマッティのプレステージに触れられるとあらば、これ以上の幸福はない。

 これからはポール・ジアマッティのことをプレステージ俳優、いや、イリュージョン俳優と呼ばせていただく。

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幻影師アイゼンハイム
監督・脚本:ニール・バーガー
原作:スティーヴン・ミルハウザー
出演:エドワード・ノートン、ポール・ジアマッティ、ジェシカ・ビール、
(2006年/アメリカ=チェコ)デジタルサイト/デスペラード
5月24日より日比谷シャンテシネほか全国ロードショー

「幻影師アイゼンハイム」の原作は、スティーヴン・ミルハウザー著作「バーナム博物館」に収録されています。名優ポール・ジアマッティのイリュージョンにもっともっと触れたい方は、『サイドウェイ』、とにかく必見です。

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『オーケストラの向こう側』

5月22日(木)21:00からの上映の際、『オーケストラの向こう側』にも登場するフィラデルフィア管弦楽団の主席ティンパニー奏者ドン・リッツィー率いるパーカッション・トリオほか数人の演奏家が舞台挨拶&生演奏にやってくるそうです。この映画が気になっている方、フィラデルフィア管弦楽団ファンの方は要チェック!

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 たとえば、ポール・トーマス・アンダーソンの傑作『マグノリア』において9人の主人公たちが誰一人損なわれることなく演技という名のハーモニーを奏でる様子に、“オーケストラ”という言葉を当てはめたくなる人は多いだろう。あるいは今夏公開の『クライマーズ・ハイ』で、北関東新聞社の編集部が一丸となって怒涛の渦に巻き込まれていく様子は、僕にとって“クライマックスに向けてボルテージ上がりっぱなしのオーケストラ”以外の何者でもなかった。

 三谷幸喜がミュージカル舞台「オケピ!」の題材として目をつけるまでもなく、かくもオーケストラには群像劇の要素で満ち満ちている。それぞれが独立した個性でありながら、いざ指揮者がタクトを降り上がるとそこには瞬く間に統制された集団芸術が立ち上がる。この劇的なまでの結束力はオーケストラ最大の魅力といっていいだろう。

 『オーケストラの向こう側』は、世界に名高きフィラデルフィア管弦楽団に密着した“音楽エッセイ”風のドキュメンタリーだ。クラシック・ファンにとってはその芸術性の裏側を垣間見る意味でも非常に興味深い作品だろう。でも僕個人的には、少々トンチキな見方なのかもしれないが、先にあげたような「卓越した群像劇」としても多分に魅了される部分が多かった。

 あるメンバーがこう語る。

 「オーケストラに個人の自由は存在しない。けれどメンバーはルールを乱さない範囲で、それぞれ持ちうる限りの個性を発揮しようとする。その集積がオーケストラのかけがえのない魅力となっていくんだ」

 果たしてその“個性”とはどのようにして形作られるのだろう?カメラはやがてメンバーそれぞれの横顔にクローズアップしていく。“集団”から“個”に戻ったときの団員たちの姿がそこにあふれていく。

 コンサート・マスターはアジア系の穏やかな男性だ。彼は思慮深い言葉で、かつてソリストとして活躍していた薔薇色の日々に想いを馳せる。しかし絶頂の日々は長くは続かなかった。やがて訪れる挫折。鳴かず飛ばずの数年間。そしてある日、よりにもよってトム・クルーズ主演の『ザ・エージェント』が彼の人生を変えたと言う。この映画が不思議と心の重みが取り除いてくれた。「よし、ソリストはおしまいだ。オーケストラ団員になろう」。そうしていま、彼はとても充実した人生を送っている。

 ユダヤ系のメンバーは、自らのアイデンティティに向き合う機会が多くなったと言う。彼は人種の衝突を超えて理解の時代へと進みたいと考えている。それゆえ定期的にアラブ人の音楽家とセッションを行う。そこには小難しい政治や宗教の話などいっさい存在しない。ただ楽器に向き合うふたり。音楽という共通言語だけがふたりをつなぐ。なんら境界線のないステージに冴え渡る極上のコラボレーション。彼らはそれが小さなきっかけになればと願っている。

 これらのエピソードによって“個”が強調されると、今度はまた“団”の風景が待ち構えている。日常の中でみんながフッと「同じ方向を向いている」瞬間がとても愛おしく感じられる。

 とりわけ僕らを魅了するのは、彼らがケルンを訪れたときのエピソードだった。

 メンバーの誰かが「すごいぞ!」と皆を外に連れ出すと、そこにひとりのストリート・ミュージシャンの姿がある。彼はアコーディオンでなんとビバルディの「四季」を演奏している。それは熱のこもった素晴らしい演奏だった。いつしか30名ほどの団員がそろって彼の演奏に夢中になっている。おかしな光景だ。だって普段はステージ上の花であるはずの彼らが、今は観客の立場に甘んじているわけだから。

 みんながおんなじ方向を向いている。

 演奏が終わる。拍手喝采。あまりの反響にストリート・ミュージシャンは嬉しそうだ。まさか彼らがプロのオーケストラだなんて想像さえしなかったろう。

 中国の湖畔にてメンバーが耳を済ませる場面も印象的だ。

 コンサートマスターが「静寂を楽しもう」と呼びかける。しばらく何も聴こえない。鳥のさえずり、風のそよぎが耳に届く。と、その瞬間、水のほとりでバシャリ!と魚の跳ねる音。皆がワッと一様に驚いた顔を見せる。

 …次の瞬間、彼らはステージで楽曲の最終章を奏でている。ふとハーモニーが休符を迎え、一瞬、静寂が支配する。パワーが蓄積される。その直後にドカンと圧倒的な音の洪水。先の静寂後の「バシャリ!」がよみがえってくる。なるほど、中国の湖畔のシーンで、彼らは共に次元を超え、たったひとつの休符の中にたたずんでいたのだ。

 ドキュメンタリーでありながら『マトリックス』的発想を感じさせる演出マジック。芸術とはいとも簡単に次元を飛び越え、一瞬の静寂の中に永遠すらも見出すことが可能なのだ。恐るべし、音楽エッセイ。恐るべし、ダニエル・アンカー監督。

 かくも“個”と“団”の関係性は面白い。プロフェッショナル集団たるオーケストラに関しては尚更だ。小さい頃から英才教育によって音楽漬けの毎日を送り、技術・理念ともに「音楽とは何か?」について自問自答を続けてきた彼ら。その、いわゆる悟りの境地にまで至っているかのようなたたずまいがとても心地よい。いたずらに輪を乱そうとする人間などひとりもいないし、しっかりとした個のベクトルを確立しながらも、「良い音楽を追究したい」という熱い思いがステージ上で全員を同じゴールへ向かわせているのだ。

 みんな別々の方を向いている。

 そして、みんな、おんなじ方を向いている。

 『オーケストラの向こう側』は、このふたつの状態の揺り戻しをいとおしいほど魅力的に活写している。ドキュメンタリーにしてこの物語性…やっぱりオーケストラってのは珠玉の“群像劇”なのである。

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オーケストラの向こう側/フィラデルフィア管弦楽団の秘密
監督:ダニエル・アンカー
出演:フィラデルフィア管弦楽団の105人のメンバーたち
(2004年/アメリカ)セテラ・インターナショナル
5月中旬より渋谷ユーロスペースにてレイト&モーニングショー

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