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2009/03/03

『オーストラリア』

つい最近までメディアでは宮崎県知事が「どげんかせんといかん」と息巻いていた思ったら、今度はCMでシュワルツェネッガー知事が得意気にカリフォルニアを売り込み、さらに映画業界ではオージー勢が総力を挙げて『オーストラリア』を喧伝している。

そもそもこの日本で『ジャパン』という映画が作れるかというと到底無理だし、『アメリカ』だって漠然としすぎている。“個人”についての物語が圧倒的な主流を占めるこの世の中において、『風と共に去りぬ』や『タイタニック』のような一大叙事詩を描こうとすること自体にも最低限のリスクは伴うが、国の名をタイトルに抱いた本作においては、仮にも興行的失敗を招けば、もう国家の面目丸つぶれともなりかねない。

よって『オーストラリア』を名のることは、その時点で作り手に相当な責任と自信を伴う。逆説的に言うと、このプロジェクトの名に恥じぬオージーのビッグネームこそ、ニコール・キッドマン、ヒュー・ジャックマン、そしてバズ・ラーマンだったわけであり、文化的には、牛追い、大自然、荒くれ者、アボリジニーがこれに付随してくる。

『オーストラリア』は教えてくれる。国家が成立するということは、そこに少なからず涙と血が流れたことである。バズ・ラーマンが贖罪をテーマに据えていることはちょっとした驚きだった。

イギリス人の入植から現代に至るまでアボリジニーは言いしれぬ受難を抱えてきた。本作でも描かれるように、女性が白人によって娼婦同然に扱われ、しかも男に見えるように髪を短く切られていた・・・なんて歴史は衝撃的であるし、アボリジニーの子供、または白人との混血児たちを強制的に移住させて白人との同化政策ともいうべき教育を施そうとした「奪われた世代」にも切り込んでおり、僕らは『裸足の1000マイル』と共にこの問題の片鱗に触れることができる。と同時に、“ウォークアバウト”というアボリジニーにおける神聖なる成人の儀式にも焦点をあてている。

『ダンシング・ヒーロー』『ロミオ&ジュリエット』『ムーランルージュ』と小刻みな編集で独自の世界観を完結させてきたバズ・ラーマンは、随所にこれまでの持ち味を生かしながらも、一方でダイナミックな映像に拍車をかけるべく、比較的王道的な手法でスケール感を創出することに挑戦している。冒頭から30分~1時間くらいはその両者が絶妙に掛け合わさり、これから始まる大冒険に期待が持てる。

だが、牛追いの大冒険は前半部で終わる。バズ・ラーマンはそのハイライトで観客と共に牛追いの旅を続けることを放棄して「省略の魔法」を行使する。死の砂漠をいかにして切り抜けたのか、その不思議をすべてキング・ジョージの“導きの魔力”に委ね、次の瞬間には牛の大群を突如ダーウィンの街に地響きを立てて出現させる。このあたりから、少なからず「あれ?」と感じる観客が現れ始める。というか、その観客、僕なんですけどね。

そしてもう一つの「あれ?」は、本作における悪役の執念だ。バズ・ラーマンがフレッチャーという男をあそこまでの悪に仕立て上げた理由はいったいなんだったのか。

彼のワルぶりはずっと煮え切らない。だからこそ彼は物語上の落とし前として、ラストであのような暴挙に出る必要性が生じてしまった。失敗を重ね、ようやく天下を獲ったかと思えば、降って湧いたような運命の仕打ち。とにかくあの執念は異常だった。どれくらい異常かと言うと、9.11をきっかけに「大量破壊兵器はある!」と思いこんでイラクに攻め込んでしまう妄信ぶりくらいに異常だった。

だが、そういう「あれ?」な部分にこそ、実は作り手の切実な想いが発露していたりもすると思うので、ここはひとつ、肯定的に受け止めることにする。たとえば・・・少年“ナラ”の周囲にキング・ジョージという精霊的な存在が漂い続けていたように、きっと“フレッチャー”という存在もストーリー上の悪役という役割を越え、もはや時代の切れ目から這い出してくる“狂気”として、常に主人公たちの運命と併走しつづけていたのだ・・・と。

ついでにもう一点、肯定的に捉えてみる。すべての運命の結節点としてダーウィンをゼロ戦の大群が襲う。日本人としては少なからずショックを受けるシーンだが、燃え尽きていく街の描写にも増してショックだったのは、アボリジニーの子らが収容された島において、建物の入り口に燃え尽きた小さい靴が並べられていたことだ。この「死」のイメージは強烈だった。

台詞として「(白人たちは)もともと攻撃されることを知っていながら、その島へ強制移住させた」というようなエクスキューズはあるものの、映像の力は強烈なもので、あの靴を見たときには面食らった。

しかしゼロ戦が意図的な悪として描かれているかといえば、そうでもない。おそらくバズ・ラーマンの頭の中では「戦争>アボリジニー問題」という視座ができあがっており、ゼロ戦襲来はすべての小難しい論理をすっ飛ばして人々がグッとひとつになるための運命論的展開部であると考える方が妥当だろう。

ここでもバズ・ラーマンの人間性が滲み出る。主人公は最終的に自分の内的衝動によって何かを成し遂げるのではなく、むしろ外的誘発、あるいは運命論的要素に巻き込まれることによってこそ突き動かされて変わっていく。ラーマンとはきっとそんな考えに重きを置く人物なのだ。

ということで、つっこみ出したりフォローしはじめるとキリがないのが『オーストラリア』の特徴だ。観た後に飲み会で2時間くらいは盛り上がれることは間違いない。で、結局のところ収まりがつかなくなって、「ニコール・キッドマン、綺麗でしたね。ヒュー・ジャックマン、かっこよかったですね」というところに落ち着いてしまいかねない。だって実のところ、いちばん印象に残ってるのは、やっぱりそこだもの。

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