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2009/06/22

『愛を読むひと』を掘り下げてみる

愛を読むひと』を掘り下げると、そこにはいったい何が出てくるだろうか。以下、映画を観た方以外は絶対に読まないでください。

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我々は思考をめぐらせる。だが、いくら想像力を駆使しても我々がハンナの心の底に答えを見つけることは不可能だ。おそらく彼女自身もどうしてなのか自覚していないはずだから。しかしそうやって形のない答えを「なぜ?」と問い続けることによってのみ我々の想像力は当時のナチス・ドイツ時代を生きた人々の心理へと接近することができるのだろう。
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ご存じのように、ナチスドイツが残した歴史の爪痕については時間の経過とともに描かれ方が変化してきた。人々の思考が『ヒトラー 最期の12日間』のような「人間=ヒトラー」としての描写を受け入れるにはかなりの時間を擁したわけである。
「それは悪魔が引き起こした想像するだに恐ろしいこと」
「共感なんてもってのほか」
その時代を生きた親の世代は沈黙を貫き、一方、その姿を見て育った子供らの世代は、60年代に始まる学生運動でその不満を爆発させることになる。このナチス時代の反作用と言うべきあまりに過激な学生運動については今夏公開の独映画『バーダー・マインホフ/理想の果てに』に詳しい。『愛を読むひと』でゼミの教授を演じたブルーノ・ガンツがここでも印象的な役で出演しているのも彼の独映画における特殊な立ち位置を象徴しておりとても興味深い。

『愛を読むひと』は戦後と学生運動のちょうど狭間の物語だ。劇中でハンナが罪を問われる裁判は、戦勝国ではなくドイツ国民が自らの手ではじめてナチスドイツの犯罪を断罪する類のものだった。

ハンナの証言はあまりの生々しさと混乱とが見て取れる。それは彼女がナチスに荷担したというあまりに重大かつ深刻な問題と、自らが「読み書きできない」という個人的な問題とを“おなじ次元”で捉えてしまっていることからも伺える。

冷静な思考(といっても、それは一体どう定義できるというのか。あくまで戦後60年以上を経て、僕らがいくらか歴史を俯瞰できるようになった地点において、と言い代えるべきかもしれない)であれば、それらは全く別次元の問題として扱われるべきだ。それが被害者にとっての最低限の礼儀でもあるはずだ。ハンナはそれらを一緒くたに思考した。これは被害者側からしてみればあまりに甚だしい跳躍である。

だが『愛を読むひと』が解き明かすのはこれと真逆の境地だ。当時を生きたハンナにとって、そのナチスの非人道的行為は己の生活と常に密接するものだったことを示唆するのである。そして問う「あなたなら、どうしましたか?」と。彼女は僕らと同じ“人間”だったのであり、その当時「ナチス」と「個人的問題」とは別々の次元などではなく、延長線上に繋がったものだった。そう思考することは僕らにとって容易ではない。しかし本作は観客の想像力を喚起させてくれる。ゆえに裁判のシーンからは“生々しさ”が漂い、僕らの鼻腔を痛烈な臭気によって満たしていく。
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では物語、歴史的背景という膜をもう一枚めくってみよう。『愛を読むひと』における「読み書きできない」という表象はいったい何を意味しているのか。

本作における重要な価値基準を示すものとして「物語」の存在が挙げられる。収容所の子らがハンナに朗読した物語。そして主人公マイケルが愛を交わす代償として朗読した物語。それらはフィクションであれ、ノンフィクションであれ、「声ある者の声」と捉えることができるだろう。あらゆる文献はその物語を発したいと欲する“誰か”によって執筆され、それがまた“誰か”によって読み継がれることによって世界中に伝わっていった。現代に伝わる“歴史”とはそのような声ある者の声によって編纂されたものであり、その背後には“声なき者たちの想い”が堆く積み上げられていることは想像に難くない。

裁判に立ち会うユダヤ人の母娘のエピソードも印象的だ。凄惨な現場となった教会において唯一生き残ったとされる母娘。この娘は後に自らの体験を著書としてしたためている。彼女は死に瀕する悲劇を体験して“声”を失いそうになりながらも、今こうやって“声ある者”として歴史上に声を発したのだ。

翻ってハンナは書くことも、読むこともできない。これは「歴史上で発言する権利を剥奪された存在」として解釈することはできないだろうか。

それは当時ナチス時代を生き抜いた多く(“すべて”とは言わないが)の人々が辿った境遇にも当てはまる。沈黙を貫いた親の世代があった。また保身に徹して要職に居座り続けた者もあった。

ナチス・ドイツによる犯罪行為を同じ“人間”によるものとは到底納得しえない世代があった。「彼らは悪魔に魅入られた人々だった」として拒絶する人々がいた。どちらの態度が正しいとか間違っていたとか、そういうことは問題ではない。しかし結果的に、ナチス時代の渦中で一体どのような価値判断が巻き起こっていたのか、同じ人間がどうしてここまで墜ち得たのかについて証言する貴重な“声”は、世論によって奪い取られてしまった。そこに彼らの物語を“朗読する者”はいなかった。『愛を読むひと』はそのような空気を描いた物語でもある。

そう“物語”なのだ。これもまた歴史上に刻まれた“声”として他の“朗読者”によって語り継がれていくのだろう。原作とは違い、映画版ではマイケルが自分の娘にこの物語を語り継ぐ場面で終幕を迎える。第三者に語り継ぐことによって、その物語は歴史の一部となる。

そしてもう一つ本作で語られるのは、刑務所内で死んだハンナが遺した「お茶の缶」のエピソードだ。それを目にしたユダヤ人の少女は言う。

「私も幼い頃、そのような缶の中に宝物を詰め込んでいたものだった」

ナチスに荷担した者と、大きな犠牲を強いられたユダヤ人の少女。いっこうに通じ合えないかに見えた両者が、それぞれの人生においてこの取るに足らない物語(エピソード)を共有していたという事実に胸が詰まる。それは“赦す”という行為には到底及ばないものであることは分かっている。しかしそこから、この共有していた“物語”から、作者の祈りのようなものを感じずにはいられないのだ。

以上、これはあくまで私見であって、本作の答えでは決して有り得ない(答えなど無い)ことを踏まえながらも、僕が『愛を読むひと』を観て想起したことでした。走り書きにて失礼しました。

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