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2009/07/08

『ハリー・ポッターと謎のプリンス』

2001年より続いてきた映画版もいよいよ第6作目に突入。今後、2010年の冬に『ハリー・ポッターと死の秘宝(前編)』が、そして翌年の夏には後編が公開され、これでシリーズはすっかり完結する。その意味でも最新作『ハリー・ポッターと謎のプリンス』はこれから3作分の序章となる内容となっており、まさにキャッチコピーにもあるように「クライマックスはここから始まる!」わけである。

6作目の原作に不意を突かれた人も多いだろう。なにしろ冒頭に英国首相が登場する。魔法省大臣が首相官邸を訪れ、「大変な事態になりました」と単刀直入に緊急会談を要請するのだ。しかしこの印象的な場面も映画版では丸々カット。その代わり、原作で両大臣が触れていた「人間界で起こり始めた奇妙な事件」を手際よくスピーディーに描写してみせる。上空から現れた3つの黒い影がロンドンの名所という名所を猛スピードで滑空し、テムズ河にかかるミレニアム・ブリッジを轟音とともに崩壊させるのである。魔法界の脅威がいよいよ人間界にもおよび始めた―。この映画の作り手は、首相や大臣を招聘せずとも、人々の置かれた状況をものの数分で的確に描写してみせた。もっとも、英国ではいま空前の政治不信が浸透しており、政治家たちのトップを“描かない”ことに対してはなんの躊躇もなかったであろうが。

映画版ハリー・ポッターの歴史は、主旋律に縛られていた映画作品が次第に自身のアイデンティティを獲得し自由に羽ばたいていく過程でもある。そこには大胆な省略もあるだろう。映像という具現化の手段によって原作以上の意味合いを覗かせたシーンも数知れない。いやむしろ、この映画版のありようが原作者J.K.ローリングにさえ多大なインスピレーションを与え、それが全7巻の執筆にあたらせたととらえることも可能かもしれない。両者は親(原作)と子(映画)の関係性を越え、相互作用を起こしながら進化を遂げてきたのである。

そして今回、デヴィッド・イエーツ監督は、この『ハリー・ポッターと謎のプリンス』をもはや子供たちの冒険ではなく、青年たちの物語として提示してみせる。これまで血相を変えて大人たちを見上げる存在だったハリー・ポッターは、いまや大人たちと同じかそれ以上の背の丈となり、大人たちも「子供はあっちへ行ってなさい」と追い払うようなことはしない。

青年たちと大人たちは互いに作用しあいながら、ひとつの目標に向かって突き進んでいく。そこではこれまで以上にお互いの脆さ、弱さを吐露する場面もあるかもしれない。威勢を張っていた大人が不意に心の内側をさらす。それは懺悔でも、告白でもない。相手がもはや子供ではないからこそ打ち明けられる“信頼”の表れのようなものに違いない。

今回新たに魔法薬学の教師として就任するスラグホーン先生が抱えた胸のうちも痛ましい。傍から見ていると「薄っぺらいやつだ!」と一喝したくもなるが、『ムーラン・ルージュ!』や『アイリス』などでもおなじみ、名優ジム・ブロードベントのなんとも憎めない表情が、人間の多面性にやさしい光を当てる。

ダニエル・ラドクリフをはじめとする若手俳優たちの演技もいちだんと深みを増していてうれしい限りだ。子供のころは何でも口に出して表現しないと相手に伝わらないものだった。けれど大人への階段を昇るにつれて彼らはもう口にせずとも、その場の空気で何かを敏感に察知する。そうした役者どうしのケミストリーによって微妙なニュアンスまで表現してしまうところに、キャラも俳優も確実に成長を遂げていることがわかる。

その意味では、この映画の見せ場として診察室を挙げたい。その狭いカメラ領域の中に、ハリーをはじめとするメインキャラと、ダンブルドア校長やマクゴナガル先生、スラグホーン先生にスネイプ先生という、まさに英国エンターテインメント界の重鎮たちがひしめきあった挙句、互いに空気を察し「あの、その、・・・えっと」となんだかドギマギしてしまうのである。このなんとも微妙な空気こそ、ハリー・ポッターという演技空間のひとつの到達点だと思うのだが、どうだろうか。

って言っても、青年は青年で、今度は伝えるべきことを言葉でちゃんと伝えられず、心にモヤを抱える者も一人か二人、いや三人ほど存在するのだが。結局ニンゲンなんてそんな生き物なのかもしれない。むしろそうした互いの脆さ、弱さを許容し合えることこそ友情や信頼関係といえるのであり、そうしたテーマは友情の危機や若かりし日々のダンブルドアをフィーチャーしたラスト2作にも大いに投影されていくことになる。

もちろん、幼いときに両親を失ったハリー・ポッターにとって、このヴォルデモードを攻略する長い長い旅路は同時に両親の愛情=言葉で伝えられないものを察する、いわば人生の旅路である。そして僕らはこのシリーズの最後に、ちゃんと言葉で伝えることのできなかった“もうひとりの主人公”の姿をも目の当たりにすることになるのだろう。

ちなみに前作『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』で監督に大抜擢されたデイヴィッド・イェーツについて、僕は勝手に彼のことを「光の魔術師」と呼んでいる。「ある日、ダウニング街で」というテレビ映画でもシガーロスの楽曲に乗せ北欧の町並みが仄かな光で表現されるシーンに心奪われた。世界各国で絶賛された3時間のTV映画「セックス・トラフィック」では人身売買ネットワークにまつわる幾人もの主人公たちを抜群の切れ味で描き切ってみせ、このラストでも言葉を不要とする名シーンを印象深く提示して見せた。

それらの資質が「ハリー・ポッター」シリーズで大きく買われたうことは言うまでもないが、映画というメディアでは未知数だったイェーツにこの一大シリーズを最後まで託すことを決めた製作者は、つまりは『ハリー・ポッター』が「成長の物語」であることを誰よりも深く知る人たちだったのだなと、改めて思う次第である。

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