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2009/09/23

リミッツ・オブ・コントロール

はたして映画以外の表現手段でこの「物語らしきもの」を成立させることは可能なのだろうか。いまだに映画は文学の従属品だと考える人も多いが、この男、ジム・ジャームッシュは他の映画人の追随を許さぬ卓越したマイペースぶりで、観客の想像力を挑発し、それぞれが抱える「映画の境界らしきもの」を飛び超えさせようとする。

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展開を予測させる伏線、快哉と叫ぶカタルシスなどここには存在しない。褐色の肌を持つ“名もなき主人公”は、とある任務を帯びてスペインへと飛ぶ。注文されるエスプレッソ2杯。脈絡もなく彼に言葉をかける訪問者たち。交わされるマッチ箱。連なっていく点と点。そして…。

人は通りに落ちている欠片を拾い集め、頭の中に漠然とストーリーを出現させるものである。しかしジャームッシュは観客にある種の“目隠し”を要求する。我々は恐る恐る見ず知らずの場所にまで突き動かされ、そこで「飛びなさい」と促される。眼前にあるのは実在の崖かもしれないし、その崖こそ人間がおのずと作り出した想像力のリミットなのかもしれない。

そうしている間にも、アイザック・デ・バンコレは路地を闊歩する。ゴルゴ13にも似た表情で、ストイックなオーラを放ちながら。たったそれだけのシークエンスに、背後に映り込む街並み、壁の落書き、照りつける太陽が刻む陰影、そしていかにもスペイン的な“赤”に至るまで、ジャームッシュと撮影監督クリストファー・ドイルが練りに練りあげた時間と空間との連鎖が埋まっている。

ときに意識は夢との境界をも越え、あるいはすべては冒頭に映し出されるトイレの個室にはじまり、個室で終わっていたのではないか、と思えるほど無限と有限との狭間を行きつ戻りつする。

そしてふと、バンコレの身体に張られた制御糸が太極拳によって振り払われる。これまでのジャームッシュ作品で登場人物のひとりに過ぎなかったバンコレがたどる長い道程。これはアメリカ型のグローバル経済に異を唱えるのみならず、他方で「端役の奇妙な逆襲」のようでもあり、映画の細部が大河を逆流し、およそ物語的なものと思われる心臓部にとどめを刺すという野心的な脱構築すら頭に浮かぶ。

「自分のことを最も偉大だと思っている男にとどめをさせ」

とどめを刺されるべき相手は一体誰なのか。主人公?悪役?監督?プロデューサー?原作者?評論家?観客?

いや、すべてはラストに示される眩い光にあると思うのだ。それらは劇場の重い扉を開くと同時に注ぎこんでくる眩さと似ている。そしてエンドクレジットで再び舞い戻る、黒。

光と闇のコントラストのもとでは誰もが平等である。そして望みさえすれば、われわれはマッチ箱(“劇場”のメタファーか?)を介してすぐに繋がれて、大河を逆流していける。

そのリミットをさえぎるものなど、なにも存在しない。

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生涯で最も好きな映画は?と聞かれると、僕は必ず『ゴースト・ドッグ』を入れるんですが、いまだ誰にも共感してもらったことがありません。これが凄い映画なんですよ。ハトを飼育し「葉隠入門」を愛読する殺し屋(フォレスト・ウィテカー)が、高齢化の進むマフィア組織に反旗を翻すという・・・

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