« 『悪夢のエレベーター』 | トップページ | 『ロード、ムービー』TIFF »

2009/10/16

イースタン・プレイ

追記:本作は東京国際映画祭にて『イースタン・プレイ』という仮題で上映され、見事グランプリを受賞。その後、『ソフィアの夜明け』という邦題を付与され日本公開に至りました。

ブルガリアといえばヨーグルトと琴欧州…そんな固定観念をぶっ飛ばす人間ドラマの登場だ。メインとなるのは麻薬中毒から脱しつつある芸術家の兄と、ネオナチ組織に足を踏み入れた弟。彼らが壁にぶちあたり、もがき、それでもやがて心を重ね合わせて絆を求める様を、時に痛々しく、時に眩い光とともに描いていく。その象徴たる街<ソフィア>の情景はさながらもう一人の主人公とも言えるのだろう。新人監督ゆえエピソードを起動するときの唐突さが気になる。だがそんな弱さも含めて、この映画にどんどん惹かれていく自分に気づいた。その魅力の多くは、繊細さと荒々しさを兼ね備えた兄役の俳優の賜物。彼は撮影直後に惜しくも亡くなったという。その意味でこれはまさに魂のフィルムなのだ。

以下、東京国際映画祭にてネット媒体用に行ったカメン・カレフ監督インタビューの模様を、参考資料として全文掲載しておきます。

●街について

―ブルガリアの街並みを印象深く切り取った監督が、この日本をどのように見つめているのか気になっています。ちょっとお聞かせいただけますか。

カメン・カレフ

「日本に来てまだ一週間くらいなので、ベーシックな印象しかないんですが…そうですね、大きな街で人口も多いのに、とても穏やかで、緊張関係やアグレッシブなところがない。そして雑音さえあまり聞かれない。この社会がなぜこういう方向に発展することができたのか不思議に思います。人間の社会はえてして規則や規範がなければ“我”がどっと噴き出してしまうもの。この国ではいったいどんな規則があるのか、あるいは国家がコントロールしているのか、その裏側を知りたいと思いました」

―興味深い考察ですね。

「たとえば、そこには封建時代から続く上下関係が影響しているのではないでしょうか。また、様々なものに対して心が開かれ、それらを尊重するという態度は、神道に基づくものにも感じられます。というのも、一神教の場合、人々は自分たちの周囲にあるものではなく、自分たちの上にある絶対的な存在をひとつだけ信仰します。対する“八百万の神”つまり“あらゆるところに神が存在する”という考え方は、おのずと「すべてのものを敬わなくては」という気持ちを呼び起こします。そういう思想からくる風土の違いがあるのかな、と。皆さんがとても謙虚で、自分の我をむき出しにせず、他の人々との調和を大事にしている姿からそのように感じました」

―これほど鋭い分析をいただけるとは…。今の言葉を聞きながら『イースタン・プレイ』の各場面がフラッシュバックしてきました。今おっしゃった視点はこの映画の中にも息づいていますね。

「そこに気づいてもらえて嬉しいです。この映画を作った理由はそこにあります。本作では宗教のことに全く触れていませんが、自分を見失ってしまった人、自分と葛藤している人、自分は空っぽな人間なんだと虚無感を抱えた人間が登場します。彼らが自分の身体の内側に拠り所を見つけ、もういちど完全な心を取り戻して必死に羽ばたこうとする。また、人間にはそういうことが可能なんだという希望を描いています。映画の中で「塩味が足りない」というセリフが登場するのですが、あれは「何かが欠如している状態」を暗示しているんです。この映画を見た観客の皆さんが、答えは自分の外部にあるのではなく、自分の内側にこそあるのだと、気づいてもらえることを希望します」

―なるほど・・・もうなんだかエンディングのようなコメントをいただきましたが、まだまだこれからですよ。基本的なことを伺いますが、"Eastern Plays"というタイトルに込められた意味を教えてください。

「実をいうと、初めは“4部構成の劇”を想定していました。4人の男女のポートレートというかたちで。けれど、結局できあがったものは主人公イツォを主軸にした物語となった。それでもなぜか最初のタイトルが忘れられず最後まで残ってしまったんです。よく「中身と違うじゃないか」とご指摘をいただきますが、もう慣れてしまいましたよ(笑)。あと、“イースタン”とつけたのは、ブルガリアという国が“東側諸国”“東欧”と言われるからですね」

―日本から見ると"Western Plays"というわけですね。

「そうそう(笑)」

―じゃあ、あなたは製作時にまさかこの映画がヨーロッパという垣根を越えて、日本の観客の面前で上映されるなんて夢にも思ってなかったってことですよね。

「そう、こんな機会が巡ってくるなんて夢にも思わなかった。いまになって他にもっとふさわしいタイトルがあるんじゃないかと考えている状況です。ご覧のとおり、映画の中では国に関係なく、普遍的な心の葛藤というものを描いてますので、日本でもヨーロッパでも全く同じ立場で観て、感じてもらえるのが一番うれしい。もし日本で配給が決まったら、そうだな・・・『フリスト・フリストフ』(主人公のフル・ネーム)ってタイトルはいかがでしょうか?」

―僕は監督の意向を尊重して『イースタン・プレイ』で良いと思います。

「まあ、配給会社に決めてもらいましょう。もし配給が決まったら、ですが(笑)」

―今回の映画祭ではそれぞれの出品作が放つ“土地の香り”といったものが非常に際立っています。その意味で本作もブルガリアの都市ソフィアの陰影を非常に印象深く切り取っている。そこに込めた思いをお聞かせください。

「映画の世界に入る前、私は13歳の頃から写真に没頭していました。映像は映画の中でもいちばん重要な要素です。私はソフィアの映画学校の映像部で勉強し、それからフランスの映画学校でも映像部に在籍していましたから、私の語る物語はすべて映像を通して語られることがほとんどです。

今回は撮影監督も昔からよく知った仲間でしたので、お互い自然と意思疎通を図りながら自由にカメラを回すことができました。機材も持ち運びの簡単な軽いものを選び、思いついたとき迅速に撮影できる方法にこだわりました。決められたこともどんどん変えながら、予想していなかったことが起こっても「こっちのほうがいいね!」と直感したならそれを自在に取り込んでいくわけです。

もちろん生まれ育ったソフィアの街については私自身が一番よく知っていますから、シナリオを書いている時点で頭の中で想定しうるあらゆるロケーションを思い浮かべていましたね」

―そんな撮影スタイルの影響なのか、僕にはこのソフィアの街がひとつの生き物のように感じられました。その中をイツォやゲオルギといった登場人物たちが細胞のようにうごめいている、という。

「編集の時にひとつ私が試みたのは、同じソフィアの街並みでも登場人物によって全く変わって見えるというビジョンを提示することです。イツォの見方、ゲオルギの見方、トルコ人の見方、それぞれ別の視点を組み合わせて画一的にならないように心掛けました。これは私の映画に対しての考え方と言えるかもしれません。あるひとつの視点だけを見せるのではなく、様々な視点を観客に提示していく。そのコントラストによって映画を彩っていくわけです。そうすることで作品により自由な風を吹き込み、全体としても非常にバランスのよいものに仕上がると思います」

―中でもこの映画では“光”の神々しさに目を奪われます。街を照らす光、そしてクライマックスで兄弟を照らす光というものに込めた意味を教えてもらえますか。

「私はすべてのものは黒であり、同時に白であると考えます。なので、仮にすべてを暗く捉えてしまう考え方があるとすれば、それはその人が勝手にそのような解釈に陥っているだけだと思うんです。すべてのものには黒も白も、光も闇も存在する。だから私は、光があるところにはきちんと光が見えるんだ、というありのままの現実を見せたかった」

―あなたはまるで哲学者みたいだ。

「ハハハ。そもそも哲学というのも自分の内側を知るということですしね。映画の撮影と共通するところがあるのかもしれません」

●主演男優、フリスト・フリストフのこと

―この映画は主演男優フリストさんの人生を基に作られているそうですが、いちばん最初に「君の人生を映画にしたいんだ」と告げたとき、彼はどんな反応をしましたか?

「フリストとは子ども時代からずっと友人でした。まさにアーティストの典型で、自分の内部にあるものの表現方法をずっと模索している人間だったので、その一環として「君の心の内側を映画に表現してみないか?」と声をかけたんです。すると彼は「うん、やるよ」と全く躊躇せずに答えてくれたので、逆にこっちがビックリしました」

―彼の身体性やセリフのこなしのナチュラルさ、内側にある想いの強さには驚かされました。監督はどのように演出されたんですか?

「彼は僕のことを100パーセント信頼してくれていて、僕が「こういう風にしてみて」と言ったことに対して疑うことなくそのまま表現してくれました。機材のことや演技のことがわからなくても、そんなことはお構いなし。彼はカメラの前で緊張するといったことより、もっともっと大きな意識を持っていたようです。映画に参加して何かを表現するということは彼にとって何よりも重要な使命だったのでしょう」

―生れながらのアーティストだったんですね。

「そう、ボブ・ディランのように」

―撮影後に彼が急逝したことを知り、非常にショックを受けました。この映画の中に彼の魂が生きているような気がします。

「彼の死は私にとって言葉では表せられない悲しみでした。あなたが言うように、この映画は彼の魂そのものです・・・ちなみに、フリストフは長い間、日記をつけていました。そして映画の撮影の最後に、彼が僕にこう言ったことを覚えています。『この世界ではすべての人が日記を書いている。そしてこの映画は、まさに僕自身の日記なんだ』と」

●老人との対話

―この映画のクライマックスに、おそらくこの映画に触れた多くの人が魅了されてしまうシーンがあります。主人公イツォが麻薬中毒の更生クリニックで自分の思いを吐露した帰り、老人の部屋に招かれると、そこで不思議な心の平安を感じて深く眠りこんでしまう・・・彼の身には何が起こったのでしょう?

「きっと観客はあそこの場面でイツォの心の中を感じ取り、一体感に包まれることができるのだと思います。あの瞬間、彼は自分の緊張を取り除き、ありのままの自分を開いて、受け入れることができるようになった。同時に彼は温かい空気や光などを肌身に感じ、そして力が抜けるように、眠りに陥っていく。私はあの老人を、イツォのもういちど生きたいという願いを叶えるセンセイ(日本語で表現)のような存在として描いています」

―僕はあの老人は神様なのかな、と。

「そうそう、神様みたいな存在なんですよ」

―さらにイツォが目覚めると、老人は赤ん坊に変わっていますよね。

「あの場面については観客の皆さんの自由な感性にお任せしたいと思います。もちろん私なりの意図もあるのですが、それを押しつけたくないな、という気持ちがあるんです。そうすることでこの映画もオープンになれるんじゃないかと思いますし」

●最後に、“人間にとってのアート”について

―この映画には「アートが人を変える」という想いが切実に、強く反映されています。最後の質問として、あなたがアート(映画ではなく、あえてアートと表現しますが)に寄せる想いをお聞かせください。

「人間には何かを感じたとき、それを他の人に伝えたいという欲望が生じますよね。ただそれを作品として伝える場合には、作家のエゴを超越することが必要不可欠なんです。それからひとたび作品が完成すると、それを目にした人(観客、ギャラリー)ひとりひとりの個人的な解釈というものが生まれてくる。アートというものは、作る人、観る人の解釈によって初めて成り立ってくるんです。

もしもあるとき、人々が強烈な光に打たれ、これまでにない充足した気持ちに包まれたなら、もうそこではアートなんて必要ありません。幸か不幸か、あらゆる人間はまだそういう段階には至っていないので、今なおアートが必要とされるのです。

私が考えるその最たる機能とは、私たちの周囲のバリアを取り払い、偏見を取り払ってくれるもの。観る人に『こういう見方もあったのか』と素直に感じてもらえるものだと思いっています」

―本日は貴重なお話をありがとうございました。

|

« 『悪夢のエレベーター』 | トップページ | 『ロード、ムービー』TIFF »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/137483/46496649

この記事へのトラックバック一覧です: イースタン・プレイ:

« 『悪夢のエレベーター』 | トップページ | 『ロード、ムービー』TIFF »