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2009/11/25

ワカラナイ

『バッシング』や『愛の予感』などの作家性の高い作品で、日本よりもむしろ世界の映画祭で名の知られた監督、小林政広。その最新作『ワカラナイ』に衝撃を受けた理由―。

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小林政広監督の映画にはいつもいろんな意味で驚かされる。今回だってそうだ。試写で拝見した僕は、上映前に宣伝担当さんが口にした言葉に耳を疑った。「冒頭5分間、スクリーンは真っ黒なままで、音楽だけが流れます―」。それって『ダンサー・イン・ザ・ダーク』かよ!?

商業映画には商業音楽が主題歌として付き物なこのご時世。『ワカラナイ』の主題歌のありかたは一線を画す。つまり、これから真向かう悲痛な作品が観客の心を深海へと沈めヒラメのごとく土にまみれ浮上できなったとき、ふと上方を見上げればいつもこの主題歌の残響が、心のあるべき場所を光で照らしてくれるのだ。この土臭い主題歌はいわばこの映画の命綱みたいなものだ。

暗闇のトンネルを抜けると、ひとりの少年が現れる。母は病院で寝たきり。父は幼いころに家族を捨てた。いま少年はひとりで生きている。学校には行かない。ボロボロの借家で、家賃も払えず、ガスも水道も止められた。バイトもクビになり、なけなしの小銭で腹にたまるカップ麺と菓子パンを買い、公園の水道でペットボトルに汲んだ水と一緒にがむしゃらになって口へかき込む。日々、その繰り返し、繰り返し。部屋の壁にはサッカーチームのポスターが貼ってある。しかしそれは虚しさを誘うばかりだ。だって彼の貧しさの中でそのポスターに何の意味があるというのだ。それほど少年の生活は夢も希望も枯渇している。

現代の日本を覆う貧困を象徴するかのような描写に言葉が出ない。見ている側まで息苦しくなる。しかし、待てよ。これはニュースでもよくみられる話題ではないか。小林政広の作品としては多少ありきたりな気がする。

そう感じた瞬間から、『ワカラナイ』にはもう一つ他の主題があるのでは?と意識が及び始めた。ほとんどセリフがなく、ユラユラと町を駆けまわる少年のアクション(動き)だけで構成された映像。時おり少年の前に現れては無慈悲な言葉を突きつける人たち。「どうすればいいんですか」という言葉に答えられず、茶を濁す大人たち。ちょうどそのころ、少年は人生の転機を迎える。舞台が大きく動き出す。彼は旅立つ。いったいどこへ?何をしに?

その結末はここでは語らない。

それよりも僕は、終盤になってはじめて、ずっとひとりだと思っていた少年に実は終始カメラが寄り添っていたことに気付かされた。彼は孤独などではなかった。常に彼の心の眼と視点を同じくした僕ら(観客)がそこには存在した。

そのカメラが、誰よりも少年の姿を見つめ続けてきたまなざしが、ラストでフッと彼の後を追うのをやめて、立ち止まる。

この衝撃ときたら思わず胸をかきむしりたくなるほどだった。ずっとあるはずだと思っていたものが、あるとき突然なくなってしまう。消え去ってしまう。もう二度と見つめてはくれない。でもだからこそ、向かい合いたい。その想いは人生の常であり、少年にとっての通過儀礼とさえ言えるのかもしれない。

そして暗転。続いてスクリーンに刻まれた言葉に納得がいった。「ワカラナイ」ながらも「ワカリアイタイ」、ふたつの魂の磁場のようなものに触れ、なんだか無性に圧倒される自分がいた。

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