戦場でワルツを
こんな手法があったとは。
イスラエルから届いた『戦場でワルツ』を僕らは心理ドキュメンタリー・アニメーションとでも呼べばよいのだろうか。
幕開けから主人公(この映画の監督)が悩まされるのは、26匹の野犬に追われる夢だ。それも血眼になってとめどなく追いかけてくる。他には目もくれず、執拗に。「なにか理由があるんじゃないか…?」。気になった彼が友人、知人、精神科医の助けをかりて記憶の被膜をはがしてみると、そこには忘却していたはずの戦争の爪痕がとめどなくあふれ出してきた…。
「おれはあのとき、いったい何をしたんだろう・・・?」
人間誰にでも忘れたい過去はある。その心理は日本でのほほんと暮らす僕にだって少しだけ共感できる。しかし主人公はこのままではおさまらず、意を決して悪夢の正体に飛び込もうとする。
と、ここで作者がアニメーションという手法を選んだ理由が浮かび上がってくる。おそらく本作はこの映像によって、主観と客観の間で揺れ動く“形状の定まらない心理”をとらえようとしているのだ。輪郭線は曖昧となり、記憶はイメージで補完される。それも自分にとって心地の良いイメージで。
かつてリチャード・リンクレイターは『ウェイキング・ライフ』というノン・フィクション・アニメーションを切り開いた。『戦場でワルツを』はあの手法をさらに先鋭化させ、戦火にうごめく生死の闇、被害と加害のジレンマ、その一線を超えたところに棲む魔物を、影絵やモノクロの版画にも似た陰影深さで描き込んでいる。
その画面の中の、明るく照らされた部分はイスラエルの面影であっても、対する暗闇の部分は"NOWHERE"であり"EVERYWHERE"、つまり万国に共通して広がる闇である。僕らは闇でつながっている。たとえ世界のどこに住んでいようと、人間はこの闇からは絶対に逃れることはできない。そうやって観客もいつしかこの息苦しさ、主人公の記憶をめぐる葛藤に絡めとられていく。
そして迎えるラストシーン、思わず「うっ」とうめいて気が遠のきそうになった。ここで作者はとあるシンプルな手法によって主観を滅し、深層心理に葬られた記憶を掘り起こすことに成功する。なるほど、こんな手法があったのか―。
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