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2009/11/19

脳内ニューヨーク

人間のイマジネーションを更に俯瞰して遊び倒す天才脚本家チャーリー・カウフマンの最新作にして初監督作『脳内ニューヨーク』(原題"Synecdoche,New York")は、2009年の映画のうち最も壮大で実直な、芸術家の告白だった。

Synecdoche_new_york_2 

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幼いころは自分の生きる世界が巧妙に作られたニセモノのように感じられたものだ。「いま、いきなりダッシュであそこの道角を曲がると大勢のエキストラが待機中なんじゃないか?」「あの壁の向こうから誰かに見られてるんじゃないか?」。そうやって猜疑心の塊になれたのも、自分を中心に世界が回っていたからなのだろう。

僕らは成長するにつれ現実がそうでないことに気づく。自分ひとりのために道角の向こうにエキストラが配置されていることなどありえないし、誰かがじっと見つめているとしたらそれはストーカーだ。この世にファンタジーは存在しない。あなたも僕も決して特別な人間ではない。

しかし一方で、リアルを突き詰めると誰もが不確実性の被膜に行き当たるのも事実だ。そこでは次から次に予想できないことが噴き出してくる。人間が人生を制御したり把握したりすることなど、とうてい不可能なのだから。結局いま確実に言えるのは「この世は不確実だ」ってこと。

あれ、最初の命題に戻った?

それとも逆の逆は真なり、ということなのか。

『マルコヴィッチの穴』『アダプテーション』などで知られた脚本家チャーリー・カウフマンが自ら監督を買って出てまで描いた世界は、この世の複層構造をさらに進化させたお話。といってもこれはSFなどでない。ひとりの舞台演出家が、あくまでリアルの世界において、実験的な創作活動に携わっていく物語である。

Synecdoche__new
その中心人物ケイデン(フィリップ・シーモア・ホフマン)をカウフマン本人として観ることも可能だろう。舞台作品を自らのビジョンで制御しようと務めるケイデンの身の上には、普通の人々と同じく、次々と予測不能のことが巻き起こる。怪我だって、病だって、初日を迎えた舞台の評判も全くもって予測不能。急に娘が緑色のウンチをしたり、些細なことが原因で妻が自分を愛しているのかすら懐疑的になってしまったり。

そんな日々の中、ケイデンの手がけた作品が権威ある賞を獲得する。これまでの努力が報われたと感激しながらも、そのあと究極の疑問が彼の頭をもたげる。「さて、この賞金と地位で、これからいったい何ができるだろう?」。

熟考したあげく彼はひとつの結論にたどり着く。巨大なスタジオの中に「もうひとつのニューヨーク」を創りだそうというのだ。もちろん演劇作品として。そうして着手された前代未聞のプロジェクトは、やがて客観的な“ニューヨーク”を超えて、ケイデンの極めて個人的な記憶の集積地たる“ニューヨーク”となっていく。いまやその内部にはケイデン自身を演じる役者までも存在し、ケイデン自身も全く違った役柄でその作品世界に踏み出す始末・・・。

Synecdoche_new_york1_4 
これまでにもカウフマンが描いてきた作品の多くは、こうした何らかの願望の放出が図られ、いつしか主人公が暴走しはじめることで現実と非現実との境目が混濁を極めていった。その中でも今回の所業は究極のものではないか。なにしろ舞台表現を通して「自分が生きている世界」をつかまえようとするのだから。

だが、上記したように、僕らの生きる現実は追えば追うほどその実態は境界をなくし、砂のように手のひらからこぼれおちる。そしてその先には現実とも妄想ともとれる第三の世界がせり出してくる。

この不確実性の権化のような到達点を指さして、あなたは「わけがわからない」というかもしれない。おそらく主人公ケイデンだって、本作の創造者たるチャーリー・カウフマンだって、主たる反応は同じ、「わけがわからない」。表現者にとってこれほど混沌として曖昧模糊な世界はありえないだろう。しかしカウフマンは万感の想いを持ってその光景を映し出す。これが僕らの人生なのだと言わんばかりに。

それらの描写は決して簡潔な分かりやすさはもちえていない。混乱し、まどろっこしい。でもそれが、彼の生みの苦しみ、ある種の生々しいイメージのうごめきを捉えていて、観客としてその意識に同伴したかのような感慨と、心地よい疲労感が身体の隅々まで行きわたる。

加えて彼は、この映画を独りよがりなディスコミュニケーションの世界とは捉えていない。本編ではケイデンがいつしか演出家の役割を放棄しひとりの役者へと転向するターニング・ポイントがコミカルに描かれる。ごく個人の物語が全く別の人間によって語られるとき、そこでは当事者にすら想像できなかった新たな世界観が立ち上がってくる。ケイデンは途方に暮れ、諦念に浸り、そしていくらか身軽になったかのような表情を浮かべる。

これまでスパイク・ジョーンズ、ミシェル・ゴンドリー、ジョージ・クルーニーらに作品を提供してきた脚本家チャーリー・カウフマンの経験がそこに表出していることは言うまでもない。彼自身もまた現実と創作と、そのまた向こう側とを行きつ戻りつしながら、生きてきた“主人公”なのだ。

複雑怪奇な世界を描きつづけるカウフマンは、その根本の部分で、愚かなほど正直で、そしてちょっとだけ、物悲しい。

ちなみに、チャーリー・カウフマンによるとこの企画は当初“ホラー”として動き始めたという。それがいつの間にかかくもメタ・フィクショナルな世界に置き換わったのだとか。その言葉の真意を理解するに、この「わけのわからなさ」こそチャーリー・カウフマンにとってのホラーであり、ジェイソンであり、フレディ、バタリアン、チャッキー・・・つまり飽くなき恐怖と好奇心の対象だったのではないだろうか。

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