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2010/01/05

アバター

ジェームズ・キャメロンの最新作『アバター』は映画の未来をどう変えたのか。「映像は凄いが、物語は物足りない」と囁かれる中、僕自身はこんなことを考えてみました。

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1927年『ジャズ・シンガー』の登場がサイレントからトーキーへの変革をもたらし(当時の衝撃は『アビエイター』でも描かれている)、1939年『風と共に去りぬ』がカラー映画を世界のスタンダードへと押し上げる決定打となったことはいまさら言うまでもない。

そのような技術革命が巻き起こるたびに観客や関係者の間では驚きと落胆が生まれる。で、結果、懐疑派の懸念は時間の浸食作用によって歴史の藻屑と消え去ることになるわけだが、いまだにムルナウのサイレント映画『サンライズ』を史上最高の映画に掲げる僕などは、そもそも「古風な人間」として類別されてしかるべきなのかもしれない。

確かにジェームズ・キャメロンの『アバター』は3D映画を時代のスタンダードへ導く初期衝動として決定的な意味を持っていた。

かつてディズニーランドで見た立体映像とも違う。かといって、近所のスーパーで貰った青赤メガネをかけ、愛川欽矢のコールに従ってTVの調節ネジを回し「あ、少しだけ浮き上がってきたかも!」と確証のない特殊効果に沸いたTV特番の映像体験(かつてそんな番組を観た覚えがあるのだが、これは僕の妄想なのだろうか?)とも違う。

とにかくこれまでとは全く別次元の表現革命が、僕らが通いなれた劇場で、この『アバター』で巻き起こっていることに、正直、興奮というよりも座り方のなかなか定まらない極度の緊張を覚えたし、それは僕の隣に座っていた会社帰りらしきオジサンに関しても、反対隣のニート風の青年にしても、ひとえに同じ面持ちのようだった。そして両者が映画の序盤にスースー寝息を立てていたことは、本作最大の特性を鑑みる上で極めて効果的な演出であった。

そう、『アバター』は森を滑空する「夢」で幕を開ける。

そこではパンドラに足を踏み入れる以前の主人公が、どういうわけか、すでに夢のなかでその映像を体感している。

対するクロージング・カットはどうか。こちらでは今度は主人公が再びパッチリと目を見開き、つづいてまたもや森を滑空する映像へ舞い戻る。

多くの人が指摘しているように、本作の核となるストーリーは、『ダンス・ウィズ・ウルブス』『ニュー・ワールド』『ポカホンタス』『ラスト・サムライ』といった映画群によって既に幾度も語られてきたおとぎ話に等しい。それらは強き者が弱き者を服従させるという人類史そのもの。いわば人間が生まれながらにしてDNAにインストール済みのストーリーである。

それらを夢と捉えるか、覚醒した現実と捉えるか、あるいはTVニュースで遠い国の紛争を漠然と見やるように「アバターを利用したバーチャル体験」として捉えるか。『マトリックス』(ジェームズ・キャメロンもこれを高く評価している)で主人公が語るように、僕らは繰り返される歴史の中で「もはや寝ているのか起きているのか分からない」状態で生きている。

だからこそ『アバター』における“3D”は視覚的な意味に留まらない。

幾度も語られてきたストーリーにもういちど身を委ねることによって、映画史と人類史との中途で立ちすくむ「エイリアンとしての自分」という存在を、縦軸と横軸と交わりの中で“立体的”に掘り起こそうとする。それこそが3Dの本質なのだ、と再定義せんばかりに。

と、ここまで賞賛してしまうと、さぞや崇高な作品なのだと思われるのだろうが、しかしここでジェームズ・キャメロンのもう一つの側面に触れねばならない。

彼の興味深い一面とは決して“優等生”に甘んじないことだ。おそらく上記のような叙述をいちばん嫌う。すべては映像から発し、映像で終わる。それ以外の何物でもない。

だからこそ『アバター』はプロジェクトの骨格と、一瞬一瞬あらたに更新されていくカタルシスに関しては完璧な造形力を見せつけるものの、「エコ」とか「アンチ帝国主義」といったテーマは飾りにしか過ぎない(それらを本気で論じるならば、キャメロンはあと2年早く本作を発表する必要があった)。それらで観客を啓蒙しようという思惑は健康的なまでに「ゼロ」なのである。

また『アバター』を「異世界に侵入した主人公の冒険」という文脈で読み込むならば、そもそもジェームズ・キャメロンは一貫してこのストーライラインにこだわり続けてきた人物であり、ある意味、それだけにしか興味がないとも言える。

そこには主人公を追う「必要以上に執念深い敵」だって現れる。スティーヴン・ラング演じる大佐は、『ターミネーター』におけるシュワルツェネッガー、『タイタニック』におけるビリー・ぜインと同じ画一的な遺伝子情報を持ち合わせ、いつもの指定席に我が物顔のマッチョぶりで鎮座する。

この悪役について「キャラクターが描けていない」という指摘はあたらないだろう。大佐の「執念」には何の主義主張もなく、いわば「主人公の影」あるいは「付与された悪」としてのみ機能する。これは『激突!』におけるトラック運転手と同じ。彼らの感情の起伏によって物語のボルテージが変動するという、言わば映画における「ギア」の役割を担っている。

ゆえに『アバター』はストーリーでなく、映画としての極めて工学的な肉体にこそ身をゆだねるべき作品なのかもしれない。

そしてこの先ブロックバスター系のほとんどが3D化されるかもしれない時代において、映画にインパクトを受けた観客が受動的な身に甘んじるのみならず、自分自身をどう立体的に位置付けていくのか。そのような工学的な視点こそが重要になっていくことは想像に難くないわけである。

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