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2010/02/04

おとうと

学生のころは、山田洋次の映画なんて中高年が観るものだと思っていた。が、自分も30代に入ると、その魅力にどんどんはまりこんでいった。これはひとえに僕がオッサン化の一途を辿っているせいだろうか。

山田洋次の作品を「日本人の心を浮き彫りにする」と書くのはあまりに安直なので控えたいが、かといって懸命に他の言葉を探してみても、なかなか的確な言葉が見つからない。

ひとつ言えるのは、日本の姿かたちがどんどん変わっていく中で、山田作品にだけは、愚直なまでに変わらない庶民の日常感覚が、ごく当たり前のように広がっているということだ。寅さん然り、『たそがれ清兵衛』に始まる時代劇3部作然り、そして今回の鶴瓶も然り。

人間たるもの、歳をとればとるほど幾つもの痛みを経験し、いつまでもあると思い込んでいたものが実はそうではなかったことに、ある日突然気付かされる。大切なものが永遠ではないと知る。

だからこそ中高年層の観客は山田作品に尊さを見出すのではないか。フレームのなかで永遠に持続しそうな時間の流れに身をゆだね、そっと心を置いてきてしまう。そしてその世界すら本当は永遠ではないと知っているからこそ、観客の体内で映画は“束の間の永遠”として、なおいっそう輝きを増す。

そんな流れの中で『おとうと』は、前後半で2種類の体内時計を有しているかのような作品だった。

鶴瓶と吉永小百合の関係性は前作『母べえ』のスピンオフといっても過言ではない。きっと山田洋次は映画が自分の手から離れた後も、「吉野の山で野たれ死んだ伯父さん」(『母べえ』での鶴瓶の役どころ)のことが気になってしょうがなかったのだろう。あるいは、アイコンとしての鶴瓶に今後の舵取り役としての可能性をも感じたのかもしれない。本作は監督のそうした熱病にも似た被写体への恋焦がれる想いがエネルギッシュに湧き出ている。

とりわけ前半で描かれる結婚披露宴のドタバタは、山田洋次流の「台風襲来」である。和やかな祝祭的雰囲気は常にハプニングを有するもの。噂はすれども本当に現れるとは誰ひとり思いもしない男の到来。あいつだ、あいつがやってくる。'69年に公開された映画版『男はつらいよ』第1作目の妹さくらの結婚式を彷彿とさせる涙と笑いの暴風雨。山田演出は相変わらず冴え渡る。その中心を担う鶴瓶は、まるで渥美清といっては言い過ぎだが、山田洋次の描く世界のなかで明らかに同種の地位を託されている。

またその破天荒な弟の投げたボールをすべて正面から受けとめようとする吉永小百合のキャッチャーミット。本作が献辞を捧げる市川崑の『おとうと』(1960)の岸恵子とはまた違う芯の強さが、この映画の基底を支えている。もしも寅さんに妹ではなく姉の存在があったなら、彼はこの鶴瓶みたいになっていたのだろうか。

かと思うと、後半はやや色調が変わる。今度は現代社会を“知られざる視点”から見つめた、言うなれば『学校』シリーズのような側面を垣間見せる。そのサイドストーリーとなる蒼井優と加瀬亮の恋愛模様も、これまた往年の山田作品を想わせる瑞々しさと青々しさ。

かくも『おとうと』は、山田洋次が久々に取り組む現代劇として、いくつもの自作の映像を脳裏によぎらせたかのようだ。それに呼応し観客も、それがさも自分の体内で培われた記憶であるかのように、様々な山田作品の思い出を重ね合わせ、それぞれの“束の間の永遠”に浸ることだろう。

なお本作はベルリン国際映画祭のクロージング作品としての招待が決定している。その英語タイトルは"About Her Brother"。そっと姉の存在を匂わせるあたりが、粋である。

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『男はつらいよ』の第1作を観たときの衝撃はいまだに忘れられません。
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