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2010/03/18

エンタ―・ザ・ボイド

こんなTOKYO、観たことある?Market_poster_etv_3

もう今から10年以上前、渋谷のシネマライズで『カノン』を観ていたとき、突然スクリーンが点滅し、「危険!10秒以内に劇場を立ち去りなさい!」との文字が日本語字幕付きで画面いっぱいに表示された。

もちろんこれは映画の演出。ウィリアム・キャッスルを知る術もない学生時代の僕にとって、映画にここまで挑発されたのは初めてだった。

その仕掛け人、ギャスパー・ノエは、事あるごとに「賛否両論」の文字と共に語られる。彼の描く映像世界にあからさまな嫌悪感を露わにする人も多く、カンヌをはじめとする映画祭で途中退場が絶えないのも頷ける。しかし肝心なのは、ノエが物議を醸すことを前提に映画を作っているのではなく、「そういう生き方しかできない人間」に思えることだ。たかが2時間の映画を紡ぐのに、彼は人間の奥底に押し込められた心の襞を、肉と肉の闘いのごとく不快な音を立てて擦り合わせる。そして目を覆い、耳を塞ぎたくなるような葛藤の果てに、想いもよらぬ繊細な感情を浮かび上がらせる。

そんな彼がTOKYOを舞台に2時間20分の幻想絵巻を描くのが『エンタ―・ザ・ボイド』(5月15日よりシネマスクエアとうきゅう他にて公開)。今回のテーマは、ドラッグ、セックス、霊魂、そして無<ボイド>である。

まずはオープニング。ダフト・パンクのトーマ・バンガルテルによるハードなテクノ・チューンに乗せてスクリーンに様々な言語(英、仏、独、日本、その他)の極彩色クレジットが踊り、文字は丸みを帯び、アニメーションのようにフォントを自在に変化させ、サイケデリックな明滅を繰り返す。ポケモンや『バベル』の画面点滅など比ではない。かなり意識をしっかり持って臨まなければ、これからはじまるハンディカムの手ぶれ映像を乗り切れない。

 
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歌舞伎町のネオンは、そこに仏VFX工房BUF(『ファイトクラブ』『マトリックス』『アバター』にも参加)による特殊効果を経て幻想的な“Limbo”の世界を作りだす。カメラは主人公の目線となり、「24」顔負けの“リアル・タイムで”街を彷徨い、ひとたび彼が室内でクスリ(LSD?)をキメると、ふわりその意識が身体から離脱・浮遊し、天井をキャンバスに様々な紋様を描き始める。観客はあくまで合法的なバーチャル・トリップを味わえるわけである。

それだけならまだしも、その後、彼は警察に追い詰められ銃撃、そして死亡。今度はクスリの力に頼らぬまま、意識が身体を捨て壁をすり抜け、天井を超え、街を浮遊する“魂”となっていく。僕らはこの男の魂が時間と空間を超越して<ボイド=無>に向かっていく様をゆっくりと同じ視点で体感することになる。

冒頭の1時間はこれまでの映画を覆すような実験要素とアイディアでいっぱい。その後の1時間は、もはや「魂の放浪」となって「主格」の輪郭が徐々に消滅していくので、語られるべき“ストーリー”も同時消滅し、感情移入とかそんな次元ではなくなってしまう。いわばアートのインスタレーションと呼ぶべき映像が延々と続いていく。前に目にした資料には上映時間160分とあり、今回の公開版は140分。何らかの事情によって(きっと商業的な理由だろう)作品がカットされたことは疑う余地もない。

試写室の反応から言うと、やはり賛否が激しく分かれた。僕の両隣りには30代くらいの女性が座っており、中盤以降、何度も「はあ~」と溜息を繰り返し、ラスト付近では失笑も漏れた。

しかし僕は終始この映画を嫌いにはなれなかった。こんな映像のトリップ体験は初めてだったし、カメラと人間の意識を魂レベルで同調させようなどと、ギャスパー・ノエ以外のいったい誰が思いつくだろうか。そしてノエのイメージ下においてはこの街も、人間と同じく、死と再生を繰り返す。街としての肉体から離脱し、TOKYOもまた、ボイドへ向かっているのだ。

観客の多くに失笑されようとも、自分の作りたいものを頑なに追究しつづけるノエ。その心意気はかつてと微塵も変わっていない。

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