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2010/05/19

孤高のメス

医療ドラマである。1989年、とある地方の市民病院に赴任した医師が、脳死状態の患者から肝臓移植を行うことを決意する。それは2009年に脳死臓器移植法が成立する、まだ20年も前のことだった・・・。

主演が堤真一だからか。あるいは成島出(本作の監督でもある)と加藤正人のコンビが脚本を担っているせいか。上映中、ずっと文字通りの“クライマーズ・ハイ”を味わっていた。あの映画とおんなじだった。いま、ここで、自分がその渦中に飛び込み、一体となって突き動かされている臨場感。映画は水を打ったかのような静けさなのに、その下部ではドクドクと血流が脈打ち、あらゆる細部へと情熱を行き渡らせている。

それも見せ場となる舞台は手術室なのだ。ほんの数人のスタッフに囲まれ、堤真一が人命への慈しみと敬虔なまでの使命感を眼光に宿しながら、精確に人体を切り分けていく。そのディテールに目を見張った。かつてここまで人体を詳述した映画があっただろうか。やがて臓器が露わとなり、変色部への血流が止められ、卓越した裁縫、あるいは手品師のごとき手際の良さで悪化部が取り除かれていく。どのシーンにも一切の誤魔化しは無い。なぜなら、この映画の作り手たちはおそらく、手術シーンや人体内部にリアリティを付与することによって、彼らなりに生命に対する最大限の慈しみや尊びを表現したかったに違いないから。

この想いが派生し役者の血流にまで行き渡ってこそ、堤真一の手に、いま、ひとりの患者の生命が担われているという“重み”が生じることになる。あの肝臓を持ち上げたときの、生まれたばかりの赤ん坊を取り上げるかのような確たる重量感は、たとえ映画というバーチャルな体験であったとしても、生涯忘れることはないだろう。

そして彼の一挙手一投足に遅れを取るまいと、意識を集中させ一体となって動いていくチームの面々。まるで『クライマーズ・ハイ』の新聞編集部が、今度はこの手術室に蘇ったかのようだった。彼らもまた、ひとつの細胞同士から成っており、それが団となって臓器のようにうごめく存在なのだから。

ずっと魂が浄化されていく気分にさらされていた。実は試写中に一人、いびきをかいて寝入ってしまう人がいたのだが(そんな人はどこの試写にだっているが)、面白いことに誰も彼を咎める者はいなかった。たとえば学生時代にオールナイトで観たタルコフスキーがそうだったように、『孤高のメス』においても緊張感と安らぎにも似た静謐さが表裏一体に存在する瞬間がある。あの手術室には確実に同種のα波が漂っていた。なぜだろう。まさか本当に都はるみ(!)の効力なのだろうか。

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