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2010/08/07

セラフィーヌの庭

映画を観ながら久々に息ができなくなった。セラフィーヌ・ルイという画家のことも知らなかったし、彼女が描いた絵も目にしたことはなかった。けれど芸術家としての彼女の魂は、その精神的に危なげな相貌も含めて、太古より人間が内に宿してきたプリミティブな感覚をまざまざと呼び起こしてくれる。またこの映画『セラフィーヌの庭』そのものも、人々が初めてセラフィーヌという才能を知ったときと同じ衝撃を、スクリーン・レベルで呼び覚ましてくれるのだ。

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セラフィーヌは歩く、歩く。そして家政婦として懸命に床をこすり、わずかな日銭で画材道具を買い求める。それに自分の特殊なやり方で調合した絵の具を駆使し、一筆一筆、彼女が敬愛してやまない神への賛美のごとく、色彩を散りばめていく。

彼女は少し精神を病んでいるようだった。絵を描き始めたきっかけについても「守護天使のお告げなの!」と嬉しそうに語る。誰の手ほどきも受けていないその作法はまさに彼女にしか見つめ得ない独自の世界観を提示していた。その才能を、たったひとり、ドイツ人の画商が見出し、しばしば目をかけるようになる。いつしか戦争がはじまり、そして終わり、平和な時代が訪れたかと思えば、また不況がやってきた。それでも彼女の絵画は変わらなかった。祈りのように。歩みのように。

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劇中、誰かが彼女の絵を評してこう言う。

驚いたわ。なんという絵なの。
昆虫が後ろに隠れているみたいに、花や葉がうごめいて見える。
それらはまるで、哀しげな目や、ちぎられた肉のよう。
恐ろしい絵ね。

セラフィーヌの絵は一見ほんとうに恐ろしい。が、スクリーン上で幾たびも目にするにつけ、観る者の心を静かに和らげてくれる気配に満ちている。そう、劇中、セラフィーヌが何度も両手いっぱいに大樹を抱きしめ、その鼓動に耳を澄ませたように。彼女が生きた当時、自分もドイツ人画商のようにその絵の価値を見出し得たかどうかに自信はないが、それでも今こうして観客と彼女の絵画との間に同調が生まれるのは、まさにこの映画の力と言えるだろう。

だがここで本作は「セラフィーヌの発見」が内包したジレンマをも提示する。長らく、手掛けた絵画を人に知られることなく、まるで世捨て人のように暮らしてきたセラフィーヌ。そのワンルームの間借り部屋は小型の修道所のようだった。そこに手を差し伸べたドイツ人画商は、一見、彼女にとっての唯一の理解者に見える。だが、仮に彼がセラフィーヌのことを見出さずそっとしておいてあげさえすれば、彼女は相変わらず部屋に閉じこもって絵を描き続け、その後の“悲劇”は起こらなかったかもしれないのだ。

僕らはいま、ひとつの問いに直面する。

その才能は、奇跡は、究極的に誰のためのものか?

この命題に対し本作は、ささやかなラストシーンにて、セラフィーヌを一本の大樹へと向かわせる。彼女は歩く、歩く。カメラは引きの状態でその様子をじっと見つめ続ける。

そこに明瞭な答えなど存在しない。が、この穏やかで神々しく、鮮烈なイメージこそ、セラフィーヌの感情に深く深く寄り添って導き出された、いつわりない“答え”のような気がしてならない。

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