« スター・ウォーズ復活! | トップページ | 白人ばかりのオスカーレース? »

2010/09/30

十三人の刺客

この映画がヴェネツィア国際映画祭で上映された折、海外のメディアは「サプライズ満載のカルト監督が王道の時代劇アクションを作り上げた」と褒めたたえ、これを三池崇史の色が薄まったものと曲解した僕は、上記の批評に「だが・・・」と注意書きが続いていることに気づいていなかった。

「だが、カルト色は少なからず存在する」と。

********

冒頭の説明からすると、これは広島・長崎に原爆が落ちる100年前の話らしい。争いごとのない平和な世の中であるはずのこの時代、武士はとうに死に場所を失い、それは同時に生き場所を失うことをも意味していた

ここにきて将軍の弟君にあたる稲垣吾郎は降って湧いた災害のように横暴の限りを尽くす。その残忍な相貌について聞かされた役所広司は震えが止まらないと言いながら、ニヤリと口元をひきつらせる。このとき、彼は純粋な恐怖や怒りを感じると共に、闇の中に光をも見出していたのだろう。「死に場所を見つけた」という光を。それはこの時代、浜辺でじっと構えていた彼の釣竿に、ピクリと手ごたえが走った瞬間だった。後はその釣竿を思い切り振り上げるのみ。それだけで武士としての本懐を遂げることができる。理由はどうあれ、男は地獄からチャンスを掴み取った。暴君様様である。

クライマックスの決戦に至らずとも、映画のカルトぶりは冒頭20分に凝縮されている。狭苦しい日本家屋のフスマを開閉するごとに闇の中から手を代え品を代え現れる不気味な見世物小屋、あるいは真夏の恐怖夜話。そこについぞ妖怪のごとく立ち現れし少女が、筆を口にくわえ渾身の力でしたためる「みなごろし」という文言により、パンドラの箱、もとい、地獄の釜がここに開いたことを高らかに宣言するわけだ。

強烈だ。あまりに強烈なシーンである。いつもの三池テイストを知っている観客ならまだしも、これは東宝作品である。免疫の薄い観客も集いうる作品だ。だが、これぞ三池崇史を監督に据えた“覚悟”というもの。彼の持ち味をギリギリまで許容したプロデューサーの英断を高く評価したい。恐怖劇場、あっぱれ。

そして、ここから始まる反撃も、凄まじいまでのスペクタクル感で観客を圧倒する。

**********

現代と江戸時代とではその社会状況も大きく異なる。だが精神的に見ると、本作は現代人の思考回路に深く直結している。とりわけクライマックス、宿場町で数百人が入り乱れて繰り広げられる血みどろの戦いは、現代人の脳内で日常茶飯事に巻き起こっている精神的葛藤を、そのままダイナミックに擬人化してぶちまけたものにも受け取り得る。

そもそも死ぬ覚悟によって生きる、という逆説的な論法は深作欣二が遺した『バトル・ロワイヤル』にも刻まれていたことだ。ただしひとつの教室に集う生徒が平等に殺し合う『バトル~』に比べて、本作は稲垣吾郎の示す強大なキャラクターに対して13人ものキャラが一丸となって闘い挑むことになる。それほど彼らが挑む巨悪はデカイ。

かといって、この映画は決して勧善懲悪には成り下がらないし、十三名を英雄扱いはしない。次々と仕掛けられていく罠を作戦的にためてためてホラきた!と魅せるわけでもない。スペクタクルはあるが、それはカタルシスを超越し、やがて戦争映画を観ているかのような焦燥さえ帯びてくる。

対する稲垣は次々に兵士が血を流し奇声を発しながら倒れていく地獄のような光景を目の当たりにして「ああ、いいものだな。。。ワシも戦国の世に生まれたかった」などとのたまい、最後の場面に及んでは「ありがとう」と口にする。彼は人間としてぶっ飛んではいるが、悪役として、極論者として、なかなか気の利いたことを言う。

江戸時代の末期に彼の心理を解した者などひとりもいなかっただろう。でも僕らは違う。我々の体内では“平和”や“生きること”の意味“や“幸福の意味”といったものがとうに色あせ、心のどこかで稲垣の殿様に象徴される“極論”がムクムクと顔を出すことがあるのではないか。それを征圧する13人の刺客を体内に宿してこそ心の平穏は保たれるわけだが、一方でしかしそのバランスが崩れ落ち、凄惨な事件を惹き起こすケースも後を絶たない。そんな時代に本作が放たれていることを忘れてはならない。

「パンドラの箱」の逸話とは、行き詰った社会状況が壮絶な勢いでリセットされていく歴史の教訓を内包している。人類はことあるごとにこの特殊な箱に手を触れ、そして後世に後悔を強いてきた。

物語の最後、生き残った男たちの心をよぎったものは果たしてなんだったのだろう。すべてを吐き尽した箱の底に残された“希望”とでも言うのだろうか。

三池崇史はその答えを声高には主張しない。ヒューマニズムに訴えるわけでもなければ、アナーキズムに徹するわけでもない。広角レンズで宿場町で巻き起こった宴(修羅場)のあとを広く、ただ広く、草一本生えない地球上をトボトボ歩く人類のように、映し取る。そこで生じる心象をあえて限定せずに、閉じゆくパンドラとは対照的に物語を“開いて”幕を下ろす。

死をもって生を見つめる?

そんなこと現代の日本ではどう間違っても出来るわけがない。だが、その状況にあえて観客を誘って見せるのが映画の可能性であり、それら“仮定”の桃源郷をスクリーンに映し出すことこそ映画師たちに許された崇高な所業なのだ。久々にその心意気を体感させてくれる大作に出逢った。生きる意志が体内にムクムクと立ち現われてくるのを感じた。やっぱり映画はこうでなくちゃ。

この記事が参考になりましたら、クリックのほどお願い致します。

TOP】【レビュー】【TWITTER

|

« スター・ウォーズ復活! | トップページ | 白人ばかりのオスカーレース? »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/137483/49580281

この記事へのトラックバック一覧です: 十三人の刺客:

« スター・ウォーズ復活! | トップページ | 白人ばかりのオスカーレース? »