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2010/09/15

彼女が消えた浜辺

かつてチェーホフの芝居は僕に教えてくれた。重要なことは舞台に現れない。僕らは舞台の外にまで想像力を働かせて、ここで何が起きているのか、その会話にどのような心の機微を滲ませているのか察知しなければならない。『彼女の消えた浜辺』を観ながら感じたのもまさにそのことだった。

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大学時代の友人たちが集い、ヴァカンスに出かけたカスピ海の浜辺。真っ暗いトンネルを抜け、陽光に照らしだされた彼らは、まるで学生時代に戻ったかのように大声をあげてはしゃいでいる。そこにまだ打ち解けづらそうに佇む女性がひとり。名前はエリ。彼女はどうやら、仲間のひとりが気を利かせて連れてきたゲスト要員のようだった。彼女こそ紛れもない本作の中心人物。そして中盤以降、肝心のエリは忽然と姿を消してしまう。

仲間たちはとある事実に気づき愕然とする。彼らは「エリ」という名前以外、何にも彼女のことを知らなかった。いや「彼ら」だけではない。僕ら観客だって、何も知らなかったのだ。重要なことは舞台に現れない。僕らはエリについて想像力を働かせるしか術がない。はたして彼女はどこへ消えたのか?そして彼女はいったい何者だったのか?

本作は何も答えらしきものを提示してはくれない。だが、とても正直だ。僕らがただ圧倒的に「他人のことを知らない」ということに対して正直だ。「知らない」と気づいた瞬間から、みな初めて「知ろう」とする。懸命に想像力を働かせようとする。そうしておぼろげながら像を結んだものは、実物のエリとは違う“可能性の産物”でしかないのかもしれないが、それでもそうやって想像することでしか、僕らは相手へと近づけない。

そうやってようやくスタート地点に辿りついたときに、彼らと僕らはともに思い出すだろう。

ああ、あの時エリは、

全身で喜びを表現しながら、浜辺で凧を揚げていたっけなあ、と―。

彼女があんなに笑ったのは、後にも先にもこの時だけだった気がする。

本作はイラン映画である。それも我々がよく目にする反政府的なイラン映画(ゆえにイラン国内では上映禁止)ではなく、国内で年間観賞者数NO.2にまでのぼりつめた作品だという。海外映画祭での高評価が多くの国民を劇場へと呼び寄せたことは想像に難くないが、一方でかくも鋭い感性を持ったアスガー・ハルハディという監督がこの映画に何らかのメッセージを込めているような気がしてならない。

エリの不在をとおして、彼らは、僕らは、ともに同じ景色を観ていた。

そこには政治や宗教や文化、何の隔たりも存在しない。

誰の眼前にもごく平等に広がった、絶え間なく波の打ち寄せる、美しいヴァカンスの浜辺なのだった。

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