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2010/10/08

【レビュー】乱暴と待機

本谷有希子と富永昌敬。ふたりの才能の出逢いは必然だったんだろう。本谷の文体にも富永の映像にもいつだって同じビートが息づいていて、今から考えてみると大谷能生のサクソフォンだってもうずいぶん前からふたりの作品の中でヒョルルルとうねりを聴かせていたのかもしれない。もちろん相対性理論の奏でる怪しげなポップス・ソングだって。彼らの作風を知る者にとってはまさに快心の一撃。ただし、常人には刺激が強すぎる。免疫なしで初めて映画に踏み入れるとむせ返るほどのシュール、いや臭気に愕然とするかもしれない。

物語はお腹の大きな妻と無職の夫が裏寂しい住宅地に越してくる映像から始まる。

夫が引っ越しの挨拶に隣家を訪れると、そこにはビクビクと挙動不審なメガネの女性の姿が。彼女はこの一軒家で足の不自由な兄と暮らしているという。後日、メガネ女性を目にした妻はその優しそうな表情を豹変させる。「おめえ!こんなところで何やってんだ!」 狂ったように罵倒をはじめる彼女。どうやら二人はかつての同級生で、今でも拭いきれない因縁を抱えているらしいのだが。。。

そんな中、妻のお腹が膨らむにつれ、夫は逃避するようにメガネ女性に惹かれ、「マラソンへ行ってくるぞ!」と外出したはずの兄は進行方向を変えて屋根裏から二人の親密な様子の観察に明け暮れる。これらすべての秘められた関係性が露わになり崩壊するのに、そう長い時間はかからなかった。。。

あの文体に忍び込む微かな浮世離れ感の連続。それらはある意味、身体にダイナマイトを巻き付けてなお平静を装う小心者のようでもあり、そのアンビバレントな心と身体の作用は、映像に翻案されてもなお不可思議なリズムで役者の演技に息づいている。だいたい、おしっこを我慢しながら来客の相手をするとは何たるシンコペーションだらけのリズムなことか。「チェルフィッチュ」の舞台をも彷彿とさせる。いや、そもそも何かする前におしっこを済ませておきなさい、と幼いころお母さんに躾けられなかったのか。

ただ言えるのは、今の日本映画でこれほどまでにムズガユイ気分にさせてくれるのは久しぶりだった、ということ。浅野忠信、美波の奏でる予測不能の立ち振る舞い(本谷の舞台版がそうであるように、本作もセリフ途中に挟みこまれる珍妙な動きが演技の難易度を未知数に高めている)が、冒頭の怪しげな見世物小屋的感触から徐々に居心地のいい不協和音へと導いてくれる。また山田孝之もその崩壊寸前のハーモニーに魅せられ、観客もそれに付き従うと、本作で最も常識人然とした小池栄子がとてつもなく微妙な立場に追い込まれていく。彼女のサディスティックな軸足がしっかりしているからこそ、他の演技者は大きく映画に揺さぶりをかけられる。小池の存在感ってどこまで大きいんだ、という話である。

お腹の生命はどんどん大きくなる。子供とはいえ他人格である。そこには未知なる未来が詰まっている。それを解き放つ母体には希望もあれば不安もあるだろう。いちばん身近な他者を受け入れることと、現実社会においていちばん遠い(ありえない)存在と対峙すること。『乱暴と待機』にはこのコントラストが効いている。彼女の目の前で繰り広げられる阿鼻叫喚は、いま自分の胎内で巻き起こる心理の拡大投影図であるかのようだ。

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