2011年3月30日 (水)

【レビュー】アリス・クリードの失踪

昨夏、成田-ロンドン間のフライトではじめてその存在を知った。機内上映の「イチオシ作品」として掲げられていた本作の原題は"Disappearance of Alice Creed"。今やハリウッドで引っ張りだこのジェマ・アタートンが、その知名度からは考えられないほどのカラダを張った演技で、度胸の良さを見せつけてくれる。

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驚いたのはそのコンパクトさだった。ここに集いし登場人物はたったの3人。しかもストーリーの大部分はさびれたアパートの一室で巻き起こる。

冒頭、言葉もなく、ただ黙々と下準備に没頭する2人の男たち。一人はモッサリとしたヒゲの中年男で、もう一人は不安気な表情を浮かべた痩せた男性だ。しばらくして「よし」と頷きあった彼らはついに仕事へと舵を切る。ターゲットとなる女性“アリス・クリード”は、予定通りの時間にその場にあらわれた。ふたりは彼女を手際よく拉致し、アジトに急行してベッドに縛り付ける。やがてビデオカメラを回しては彼女に刃物を突きつけ、次のセリフを言えと指示を出す。

「パパ、私は誘拐された。身代金を支払わなければ殺される。お願い、助けて!」

かくしてこのミステリアスな誘拐劇の1日目が幕を開けた―。

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とまあ、ここまではよく見かけるパターンだろう。だが細かく見ていくと、この誘拐がいかに計算されつくしたものかが伝わってくる。アリスは誘拐されて間もなく衣服を全て剥ぎ取られる。無防備にむき出しになる彼女の肢体。しかし犯人たちはその姿に欲情することなく、ただ淡々と、彼女の身体に事前に用意しておいたジャージ上下を着せつけていく(監禁中も動きやすいようにだろうか)。時間がくると迅速に、一定量の水分補給させ、また、トイレに行きたいと言われれば、尿瓶を持ってきて「これにしろ」と言う。ちがう、大の方だ、と答えると、今度はバケツを持ってきて「これにしろ」と・・・。

忘れないでほしい。僕はこれを機内で観ている。それぞれの座席に備え付けの小画面で。つまり観てる映像は隣席の乗客に筒抜けなのだ。まったく…この部分だけを抽出してみれば、なんとアブノーマルな映画、アブノーマルな乗客なことか!

だが、ここでスイッチを切らなくて本当に良かった。この誘拐事件は本当に予測不能。いや、予測不能を突き詰めると逆に作話上の意図があからさまになってしまうものだが、たとえそうであったとしても、ここにはあるべき方向へ流麗にプロットを転がしていく巧さと、閉鎖空間に拡がりゆく研ぎ澄まされたビジュアル、そして役者たちの足腰の確かな演技が共存する。それらが互いにあいまって緊張感をキープし、一瞬たりとも飽きさせないドラマのうねりを巻き起こしていく。

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そもそも“2人”という安定感に、もうひとりを掛け合わすことで原子核には不安定性が生じる。サスペンスにおける不安定とは、これすなわち“御馳走”。それぞれの立ち位置は一箇所に固まることなく、いつでも、誰しもが下剋上可能となる。この3すくみの関係性がいかなる姿へと変貌を遂げていくのか。最終的にゲームを支配するのは誰なのか。そしてラストで立ち残っているのは?

観客それぞれが、これまで自分の培ってきたサスペンス文法を駆使してこの展開を読み解こうとするだろう。でも恐らく、もう一枚だけ、『アリス・クリード』のほうが上手のような気がする。

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2010年6月25日 (金)

ザ・ロード

断わっておくが、これは観賞後に「ああ、面白かった!」とか「感動した!」とか、すぐに感情面で答えが出せるような映画ではない。むしろ観る者が一生かけて本作の1シーン1シーンを噛みしめていくような、そして我々が歳を重ねるごとにどんどん見方が変わていくような。。。とにかく『ザ・ロード』はそんな映画なのだった。

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地球の状況が一変した後の近未来。すでに人類の多くは死に絶え、何もない道を父子がトボトボと歩き続けている。辺りの寒さは徐々に厳しさを増し、このままでは冬を凌げないかもしれない。彼らは生き残るために少しでも温かい場所を求めて南へ向かう。そこで遭遇する、生きるためには手段を選ばぬ人々。垣間見る人間の暗黒面。そして“正しき者”の定義があまりに曖昧になってしまった世界。彼らが辿る“絶望”の陰影はあまりに深い。

「いいか、いざとなったらこの角度で口にくわえろ。失敗は許されないぞ」

ヴィゴ・モーテンセン演じる父親は息子に拳銃の引き金の引き方を教える。それはこの世界で生きるための過酷なまでの厳しさであり、なおかつ父が子に成しうる精一杯の優しさでもある。

しかし一方で、人間にとって死とは必ず巡りくるもの。年齢的にいっても先に老いるのは父親の方で、いつしか息子に別れの言葉を告げるときがやってくる。旅立った瞬間からカウントダウンは始まっている。彼らが同じ道を共に並んで歩ける時間は短い。だからこそ父は息子に「生きるすべ」を教える。いつ自分が逝っても、この子がひとりで歩いていけるように。絶望的な世の中でも決して“灯り”を失わないように。本作の"The Road"とは、彼らのたどる死への長い長い一本道でもあり、父から子へ受け継がれる“巣立ちの授業”でもあるかのようだ。

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原作者は『すべての美しい馬』『ノーカントリー』などで知られ、毎年ノーベル文学賞にいちばん近い存在と言われる米作家コーマック・マッカーシー。ピューリッツァー賞を受賞した本作は、マッカーシーが高齢になって生まれた愛息の寝顔を見つめているうちに沸々と湧きあがってきた想いに基づいているという。

彼の作品ではいつも「荒野」が人生を象徴するキャンバスのように延々と広がる。それは我々の暮らす物質文明から無駄な要素を(時には感情さえ)すべて消し去り、必要最小限の条件のもとに人間の本性をじっくり浮かび上がらせていく手法のように思える。荒野ゆえ、文体はひどく乾燥している。でもだからこそ、そこで微かな湿り気をもって生まれる愛情を、読者はこれまでにない感慨を持ってじっくりと噛みしめることとなる。(原作本については拙ブログの過去記事をどうぞ)

彼らが海に辿りつく時、ラストは唐突に訪れる。このときカラッポだった心の中に一気に感情が流れ込んでくる。そして打ち寄せる波の音にかき消されるように、およそ僕らが英語の授業でいちばん初めに習ったであろうごくシンプルな会話が、静かに、神々しく交わされる。

"Nice to meet you"

この言葉がこんなにも胸に沁みたのは初めてだった。

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2010年6月19日 (土)

ソフトボーイ

この映画の舞台は佐賀県、牛津の町だという。話は違うが、夏目漱石が留学先の英国で綴った日記にはオックスフォードのことを「牛津」と翻訳して紹介する箇所がある(コーヒーを珈琲、ハリウッドを聖林と表したりするのと同じですね)。『ソフトボーイ』を観た後にあらためて漱石の文章に触れると、彼の言う学術都市がにわかに水色の残像に彩られた風景として浮かび上がってくるかのよう。

本作は水色のユニフォームを着た部員たちが全国大会を目指す映画だ佐賀県内にソフトボール部がひとつも存在しないことに気付いた生徒が、「俺らが作れば全国大会に行ける!」と、やや強引な創部プロジェクトに打って出る。そして実際に彼らは紆余曲折を経てまんまと全国大会へと出場してしまう。これは事実に基づく物語だという。

牛津高校だけに掛け声も独特だ。

「うしづ~~ファイッ!」

「モーッ!」

これまでの人生で一度も何かに全力で取り組んだことのない高校生が、汗と涙と怒号と根性を激しくぶつけあった青春叙事詩。。。あ、それは東宝の『ルーキーズ』だった。これに対して東映はオルターナティブな戦法に打って出た。この『ソフトボーイ』はとてもマイペースな青春スポーツ映画だった。まあ、『ルーキーズ』が全国大会だとすると、『ソフトボーイ』は地方大会、いや草野球大会スケールといったところか。でも、そこにこそチカラ技ではなく日常の延長線上で観客と映画とを出逢わせるリアリティがある。

嬉しいことに、やがて本作は青春とか根性とは全く違った次元のテーマを浮かび上がらせる。つまり、誰もが同じステージで頂点を目指す必要はないのだ。彼らが数多くのスポーツの中から「ソフトボール」を見つけ、選び取ったように、重要なのは、いかにして自分の能力を発揮できるステージを見つけ出すか、ということなのだ。

非常に練り込まれた脚本だなと感心した。足場がなくフラフラ漂っているように思えて、実はこの時代の空気をしっかりと捉え、芯がしっかりしている。『ソフトボーイ』の作り手たちは実は驚くほど足腰の柔軟な敏腕選手たちなのかもしれない。

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2010年6月18日 (金)

闇の列車、光の旅

南米大陸にはまだまだ語り尽くせぬ物語が眠っているようだ。『闇の列車、光の旅』は遥かホンジュラスからアメリカまで、列車の背中に運命を託した青年と少女の長い長いロードムービーである。

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心を鷲掴みにされるとはこのことだ。多くのロードムービーは解放感にあふれ、旅や出逢いの醍醐味に満ちている。しかしここでは息苦しくひしめきあった命がけの脱出劇が刻まれている。

暴力が蔓延し、貧困が生活を圧迫し、未来の展望はなかなか見えてこない。そんな暗闇のトンネルをささやかな閃光が貫くように、一本の列車がゆっくりと走り抜けていく。車内、車外にはおびただしい数の乗客たち。皆それぞれに新生活を夢見て決死の旅に身を捧げている。誰かが言う。「無事に目的地までたどり着くのはこの中の5パーセントにも満たないだろう」。そこには家族と共に故郷を後にした少女の姿があった。そして地元のギャング団から追われたひとりの青年の姿も。ロミオとジュリエットのごとく出逢ったふたりの距離は、いつしか少しずつ縮まっていくのだが。。。

『シティ・オブ・ゴッド』や『そして、ひと粒のひかり』を彷彿とさせる“激しさ”と“静謐さ”が絶妙な匙加減で登場人物の運命を彩っていく。米国内でも不法移民の問題が度々取りざたされる中、キャリー・ジョージ・フクナガ監督は実際に列車に乗り込み、人々と言葉を交わして共に旅をし、その生々しい現実を脚本に落とし込んでいったという。

そしてもう一方のギャング団についても入念な取材を重ねた。実在する組織をモデルに、その統治形態やネットワーク、敵対組織との抗争の模様についても。その期間、約2年。この執念が実ったかどうかは作品を観れば一目瞭然。フクナガ監督はサンダンス映画祭でも監督賞を受賞し、その名を一気に世界へと知らしめた。ちなみに、お気づきのとおり、彼は日系アメリカ人だ。そして本作はガエル・ガルシア・ベルナル&ディエゴ・ルナらのサポートのもとアメリカとメキシコの合作として製作された。国境なんてモノともしない。映画の製作過程からして、これはとてつもないロードムービーだったのだ。

日本で暮らしていると、本作のような暮らしにはとてもじゃないが想像が及ばない。この映画を知ることで、知らない世界にまたひとつ手が届いたような気がする。それはあくまでバーチャルな体験でしかないのだが、少なくともキャリー・フクナガ監督のような新たな才能の出現により、これらの地域の人々と世界中の観客とが映画という針で穴をあけたような“視点”を介して繋がった。これはひとつの達成と言えるのだろう。

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2010年6月15日 (火)

サバイバル・オブ・ザ・デッド

『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』(1968)を皮きりにゾンビ映画というジャンルを無心になって開拓してきたジョージ・A・ロメロ監督。このカリズマも今年の2月で御歳70を迎えた。

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水木しげるが悪趣味な貸し本漫画家として長らく後ろ指さされたのと同様、ロメロのことを未だ下劣なバイオレンス・ホラー監督として不快感を露わにする人も多いだろうが、この42年間で彼が開拓してきた方法論は他のホラー作者と一味違い、それはひとえに「ゾンビを通じて社会を見つめる」という定点観測機能にある。ホラー要素を抜きにして映画を見つめると、それは驚くほど“社会派”なのだ。

そもそも『ゾンビ』("Dawn of the Dead")からして大量消費時代の象徴たるスーパーマーケットでゾンビVS人間のコミカルな攻防が繰り広げられ、最近の『ランド・オブ・ザ・デッド』では巨大な格差社会の底辺と頂点との対決が描かれ(デニス・ホッパーが頂点側の人間として味わい深く登場)、そして『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』ではなんとまあ、Youtube時代における同時多発的なゾンビ襲来を人々がどのように伝えていくか、がタイトル通りのビデオ日記のように綴られていく。まるで“ゾンビ”をアイコンに、ロメロ自身の文明観を綴るエッセイ・シリーズのようにも見える。

今回の『サバイバル・オブ・ザ・デッド』は、もうタイトルからしておかしくなっている。本来ならば「生き残るべき」は人間であって、デッド(ゾンビ)ではないはずだ。舞台は前作から一転してネットの世界など姿も見せない隔絶された島社会。そこで代々因縁の対決を繰り広げてきたふたつの勢力が「ゾンビを殺すか、生かすか」で大モメする。片方はゾンビウィルスの拡大を防ぐべく、家族でも友人でも子供でも感染者はすぐに始末する。もう片方は「彼らを二度も死なせる必要はない。教育次第では従順なゾンビになる」と言う。なるほど後者のアイディアは画期的だ。でもここに落とし穴がある。結局彼らが陥るのは、首に鎖をつけてゾンビの自由を奪うという、見せかけだけの寛大さなのだった・・・。

ちょっとだけ時代が遅かった。これを大統領選のときに発表していたら反響も大きかったろう。それにしても彼の描く世界観は時代の瞬間風速を突くとともに、普遍性をも突いている。そして観客にはだんだんとゾンビがただの生ける屍には思えなくなっていく。彼らは相変わらず手を突き出して「あー、あー」と向かってくるだけだが、その姿に投影されるのは、流行、時代性、概念、価値観において、指さされた方向へと惰性で群がっていく一般大衆である。

しかし進展もある。劇中、登場人物がゾンビの行動を見てこう叫ぶのだ。

「見た!?今のゾンビ、車を運転したぜ!そうか、彼らは学習するんだ!」

「惰性で群がる者たち」が明らかに知恵をつけ始めている。彼らはいつしか自分の足でしっかりと立ち、軽快なステップで歩を進める習性を獲得するかもしれない。そして自らの頭で考え、答えをだす。

そのときにはもう、青ざめた表情もすっかり生気を取り戻しているかもしれない。   

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2010年6月 9日 (水)

クレイジー・ハート

日本公開の可能性が半ば消えかかっていた中年音楽映画が、『ハングオーバー』と同じく主要映画賞の受賞に助けられ、映画の主人公さながらの見事な復活劇で日の目を見ることとなった。

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本作で落ちぶれたカントリー・シンガーを体現したジェフ・ブリッジスはアカデミー賞やゴールデン・グローヴ賞の主演男優賞をはじめおびただしい数のトロフィーを手にした。神様が人間に、たった一度だけ最高のスポットライトを用意してくれるとすれば、それは彼にとってまさに今しかあり得ない。赤の他人にこんなこと言われても当人は困惑するだろうけど、長い俳優キャリアを歩んできたブリッジスだからこそ、その姿は映画の主人公と絶妙に重なって胸に迫ってくる。

かつては幾つかヒットも飛ばしたカントリー・ミュージシャン。いまや田舎の小さなステージをどさ回りし、アルコールでベロンベロンになりながら、昔話にでも浸るかのように演奏を披露する。かつては妻と子供もいたらしい。でも今はひとり。事務所の社長からは「新曲を書け!」と促され、その重責から逃げるようにアルコールを煽り、今日もまたベロンベロンの状態でステージに立つ。そんな彼にもとに、ひとりの女性が取材に訪れる。ふたりは互いに惹かれあっていくのだが。。。

もしも本作が「~受賞!」の冠を煽ぐことなく目の前に置かれたら、僕は正当な評価を下すことができただろうか(ひとことで地味とは決して言うまい)。それほど独特の温度と感触を持った映画である。きっと大学生のころの自分がこの作品を目にしてもサッパリ共感できなかったと思う。30代を越え、40代に差し掛かった頃から、『クレイジー・ハート』は各々の観客の心の中でムクムクと姿を現すのではないか。ジェフ・ブリッジスが全身で体現した弱さ、儚さ、周囲への不信、疎外感、孤独。若さだけではどうにもカバーできなくなった時、人はどうやって道を歩き続けられるのか。何を支えに歩き続けるべきなのだろうか。

この映画には誰一人として悪者が登場しないどころか、誰もが彼の才能を信じている。事務所の社長だって心から彼を発奮させたいと願っているし、大物ミュージシャンに伸し上がったかつての弟子(誰が演じているかはお楽しみ)も、昔のわだかまりを洗い流し、いまや自分をバネにして彼に再起を遂げてもらおうと協力を惜しまない。

つまり、可能性を信じていないのは主人公ただひとり、なのだ。その状況を彼も充分理解している。分かっているのに踏み出せない“もどかしさ”。自分の性格をよく知る善き人々が与えてくれるチャンスに巧く乗れない頑なさ。ゴールはもうすぐそこなのに、何かが邪魔してしまう。でもだからこそ、そんな心境を乗り越えて生まれてくる歌は、いぶし銀の魅力に包まれ、とても素直な優しさに満ちていた。

その歌詞はまるで反射鏡のよう。きっと観客のこれまでの人生をも投影し、感謝や贖罪、哀しみや希望といった様々な思いを去来させてくれることだろう。

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2010年6月 8日 (火)

パリ20区、僕たちのクラス

丸2年である。カンヌ映画祭のパルムドール(最高賞)受賞作が日本公開を迎えるまでにこれだけの月日が経過した。洋画を取り巻く景気の状況は、それほどまでに製作と公開に時差を必要としているのか。

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ただし、『パリ20区、僕たちのクラス』はそれほど待たされた甲斐のある素晴らしい作品だった。あのとき審査委員長だったショーン・ペンの賛辞はウソではなかった。セレモニーの壇上には生徒役の若者らが大挙して上がり、皆が映画とは180度ちがう無邪気な笑顔で受賞を祝福しあっていた。

どこにでもありそうな学校。クラス。そして生徒たち。冒頭で、担任の国語教師(この映画の原作者でもある)がコーヒーを一杯グイと飲み干して学校へ出勤、いや出陣する。そこはまさに生徒VS教師の決闘の場。毎日が個性と個性のぶつかり合いで、さきほど笑っていた生徒が、今はご機嫌を損ねてプイと他所を向く。しっかり手綱を引いていないと、どこにだって火種は生じる。そして教師も聖人君主というわけではない。うっかり言ってはならない一言を口にすることもある。ほんの些細な質問と答えが大議論へと変貌する。そこに、それぞれの家庭の事情、肌の色、民族の問題も透けて見えてくる。ここは言わば、ひとつの世界だ。日々うねりゆく大海原が無限に広がっている。

金八先生というわけでなく、中学生日記というわけでもなく、ただ開始のチャイムが鳴り響けば生き物のように一体化してうごめく“クラス”の存在がある。ここで醸成される空気は、クラスメイトそれぞれの表情、セリフ、仕草によって血肉化され、終始ダイナミックに対流しつづける。まるで演技とは思えない。その場の臨場感で観客を巻き込んでいく圧倒的な勢いがある。大したストーリーラインもないのに、130分間があっという間に過ぎて行った。

一見、無秩序。だが、全体を統合すると、その無秩序さえも包含して、母親の胎内のごとき安心感も見えてくる。彼らがいくら無茶をやったって、ここでは罰せられることもなければ、ギリギリの境界線を越えるまで追放されることもない。学校、そしてクラスという名の要塞が、彼らを守ってくれる。だからこそ教師とも全力でやりあえる。もう二度とは戻ってこないこの瞬間を、かれらは10年後、20年後、どう想い返すだろうか。

小生意気、かつ生き生きとした子役たちを見ながら、改めて学校という特殊な場所の記憶が懐かしく想いだされた。あそこは確かに、ある意味、聖域だったのだ。

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そう、この著者、フランソワ・ベゴドーこそ、本作の要たる国語教師なのだ。髪はちょっと薄いが、凄く顔立ちのいい人で、上映中は中堅の俳優さんかと思っていた。彼がテンパると額の筋がくっきりと浮き出て、すごくリアルだった。。。ちなみにパリを舞台にした18本の競作集『パリ、ジュテーム』では、ホラーの帝王ウェス・クレイヴン監督がパリ20区のペール・ラシェーズ墓地を舞台に面白い短編を紡いでいます。

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2010年6月 3日 (木)

マイ・ブラザー

たかがハリウッド・リメイク。しかし不思議な感慨に襲われた。トビ―・マグワイア、ナタリー・ポートマン、ジェイク・ギレンホール。彼らの顔はいつもと同じなのに、その内側から放出される人格はまったく違って見えたのだ。

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ベースとなるのは、北欧のスザンネ・ビア監督作『ある愛の風景』。このシンプルかつ重厚な骨格が、舞台をアメリカに変えても、驚くべき精度で機能している。

妻と娘を残し戦地へ旅立った兄が消息を絶った。残された家族の悲しみを癒すべく、デキの悪い弟は懸命にフォローしようとする。徐々に彼になつき始める幼い姪たち。そして義姉。ふたりは仄かな愛情で包まれはじめていた。そこへ飛び込んできた、兄の生還の知らせ。彼は本当に帰ってきた。以前とはすっかり心を豹変させて・・・。

かねてより「似ている!」「見間違える」と言われ続けてきたトビ―とジェイク。彼らが兄弟役を担うだけでも夢のキャスティングなのだが、そこに極めつけ、父親役としてサム・シェパードが名を連ねる。彼らの奏でる父子の和音&不協和音もじっくりと沁みわたる。

そして、子供劇団での演出キャリアを持つベテラン監督ジム・シェリダンは、『イン・アメリカ』で実証済みの卓越した子役演出を、本作でも炸裂させる。これには本当に驚いた。トビ―、ナタリー、ジェイク、それにサム・シェパードをもってしても太刀打ちできないほどに幼い姉妹たちが魅せる。それも小手先の巧さではなく、真に迫った表現力で、観客の魂を震わせる。とくにお姉ちゃん役の子は神がかり的だ。

もう一点、ジム・シェリダンといえば『父の祈りを』、『ボクサー』でも描いた母国アイルランドの闘争史を想起せずにいられない。本作にU2の楽曲が使用されていることからも、ここで扱われるアフガニスタンの戦争に、シェリダン自身はもっと普遍的な意味での憎しみ合い、殺し合い、そしてそれによって豹変していく人間の心を刻み込もうとしたのではないだろうか。

リメイクとは、オリジナルの再生産ではない。オリジナルに新たな価値を付与することである。その点においてジム・シェリダンは雇われ監督としてではなく、あくまで自身の作風の延長線上にこの映画を配置した。魂を失ったリメイクや続編映画が大量生産される昨今、この手腕に対してとめどない畏敬の念が溢れた。

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2010年5月19日 (水)

孤高のメス

医療ドラマである。1989年、とある地方の市民病院に赴任した医師が、脳死状態の患者から肝臓移植を行うことを決意する。それは2009年に脳死臓器移植法が成立する、まだ20年も前のことだった・・・。

主演が堤真一だからか。あるいは成島出(本作の監督でもある)と加藤正人のコンビが脚本を担っているせいか。上映中、ずっと文字通りの“クライマーズ・ハイ”を味わっていた。あの映画とおんなじだった。いま、ここで、自分がその渦中に飛び込み、一体となって突き動かされている臨場感。映画は水を打ったかのような静けさなのに、その下部ではドクドクと血流が脈打ち、あらゆる細部へと情熱を行き渡らせている。

それも見せ場となる舞台は手術室なのだ。ほんの数人のスタッフに囲まれ、堤真一が人命への慈しみと敬虔なまでの使命感を眼光に宿しながら、精確に人体を切り分けていく。そのディテールに目を見張った。かつてここまで人体を詳述した映画があっただろうか。やがて臓器が露わとなり、変色部への血流が止められ、卓越した裁縫、あるいは手品師のごとき手際の良さで悪化部が取り除かれていく。どのシーンにも一切の誤魔化しは無い。なぜなら、この映画の作り手たちはおそらく、手術シーンや人体内部にリアリティを付与することによって、彼らなりに生命に対する最大限の慈しみや尊びを表現したかったに違いないから。

この想いが派生し役者の血流にまで行き渡ってこそ、堤真一の手に、いま、ひとりの患者の生命が担われているという“重み”が生じることになる。あの肝臓を持ち上げたときの、生まれたばかりの赤ん坊を取り上げるかのような確たる重量感は、たとえ映画というバーチャルな体験であったとしても、生涯忘れることはないだろう。

そして彼の一挙手一投足に遅れを取るまいと、意識を集中させ一体となって動いていくチームの面々。まるで『クライマーズ・ハイ』の新聞編集部が、今度はこの手術室に蘇ったかのようだった。彼らもまた、ひとつの細胞同士から成っており、それが団となって臓器のようにうごめく存在なのだから。

ずっと魂が浄化されていく気分にさらされていた。実は試写中に一人、いびきをかいて寝入ってしまう人がいたのだが(そんな人はどこの試写にだっているが)、面白いことに誰も彼を咎める者はいなかった。たとえば学生時代にオールナイトで観たタルコフスキーがそうだったように、『孤高のメス』においても緊張感と安らぎにも似た静謐さが表裏一体に存在する瞬間がある。あの手術室には確実に同種のα波が漂っていた。なぜだろう。まさか本当に都はるみ(!)の効力なのだろうか。

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2010年5月12日 (水)

アイアンマン2

俳優ロバート・ダウニーJr.を再起復活させたご利益抜群のヒーロー、アイアンマン。その登場はヒーローの人間臭さがリアリティを伴ってスクリーン上を席巻しはじめた、映画史のターニング・ポイントとなった。

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あれから2年、ダウニーJr.が再びレトロなパワード・スーツに身を包んで帰ってくる。今回のトニー・スターク(=アイアンマン)はかなり調子に乗っている。チョイワルぶりを加速させ、自身のバースデー・パーティーでは招待客の面前でパワードスーツを着たままイチモツをさらけ出そうともする(なんてことだ!)。自身が主催する科学万博やそれにカーレースでも大勢の観衆を圧倒し、煙に巻き、そのセレブぶりを乱用。米議会の公聴会では「私が核抑止力だ!」と高飛車に発言する始末。

確かに今現在、このオジサマ俳優を止められるものなど他にはいるまい。ダウニーJr.とトニー・スタークは前作以上に寸分違わぬリアリティで繋がっているかのよう。しかし彼は気付いていなかった。遥かロシアからもっと上手で獰猛なオジサマが彼の生命をつけ狙っていることを。。。

その男こそミッキー・ローク。まるで『レスラー』の“ザ・ラム”が改心どころか改悪してアイアンマンに戦いを挑んでいるかのような、チョイワルどころか極悪っぷり。最強の敵“ウィップラッシュ”として、縄跳びみたいな紐を両手でビュンビュン振り回すという、いささか洗練さに欠けた攻撃が持ち味だ。これに猫パンチが加われば、ここにもミッキー・ローク=ウィップラッシュという等身大の役作りが成立する。ヒーローもヒーローなら悪役も悪役でスクリーン上と言えども嘘のつけない時代になっているのだ。

Ironman2_3 
事態はいつしか最強のオジサマ旋風に呑み込まれる。俺も、俺もと言わんばかりにドン・チードル、サム・ロックウェル、サミュエル・L・ジャクソンが揃い踏み。むせかえるほどの加齢臭を漂わせながら、ハイテク感みなぎるガジェットVFXを凌ぐ演技バトルが繰り広げる。特にロックウェルに関しては、実は彼も前作で主役候補に挙がっていたことから、アイアンマンに対するネチっこさはひとしおだ。一方、サミュエルの出番は2シーンのみだが、次回作として起動しはじめたヒーロー大集合ムービー『アヴェンジャーズ』の伏線としてスタークを仲間に引き入れようと画策する。このメンツに押され、チードルはかなり影が薄い。

そして、くせものなのはジョン・ファーヴローだ。この映画の監督にして役者でもある彼が、前作以上に自分の出番を用意して暴れている。もうあわよくば俺も次回作でアヴェンジャーズに編入させてくれと主張せんばかりに。しかし誰も口は出せまい。だって彼は製作総指揮でもあるのだから。

John_3
まあ、アフガニスタンの監獄でゼロからロボをこしらえて脱出してみせた前作の圧倒的な面白さに比べると今回のストーリー的に弱めではある。中盤は対戦アクションがごっそり抜け落ち、いささか説明的に陥ってしまう。しかし考えてもみてくださいよ。イケメン若手が大挙出演するシリーズがもてはやされる時代の中で、こんなにもオジサマ方が頑張ってる。なんだかそれだけで満足できる。これはかなり画期的なことなのだ。

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