2011年2月25日 (金)

RED

時代はめぐる。かつて肉体派の俳優たちが想像を絶するアクションを自力で体現していた時代があり、やがてCGIが彼らの奮闘にとって代わり自由自在に劇画的な描写を施せる時代が訪れた。そして観客がそれらのギミックに飽き始めると、今度はこの手のジャンルとは階級そのものが違うと思われていた当代きってのいぶし銀名優たちが、背後に漂うオーラと、歌舞伎の見栄のごとき所作だけでアクションに挑む新時代がやってきたのである。

その代表格と言えるのがこの『RED』ということになるのだろう。

Red_2
物語は仕事をリタイアしたばかりの中年男の日常からスタート。家族はおらず、自宅にひとりぼっち。ヒマを持て余し、年金受給のホットラインに電話しては、いつものオペレーターの女性に愚痴を聴いてもらう。そんな日々が続く、はずだった。黒づくめの特殊部隊が彼の自宅を襲撃し木端微塵に破壊するまでは…。しかし冒頭10分で彼の素顔が判明する。あまりにあっけなく敵を粉砕し、全員を返り撃ちにした挙句、相手が次にどんな手に出るのかも素早く読みこみ、迅速に行動へ移す。そう、現役時代の彼は世界が恐れるCIAの凄腕エージェントだったのだ。しかしそんな彼でもなぜ自分の生命が狙われたのか見当がつかない。彼は唯一の頼れる存在を求めて、今では全米に散らばって生活するかつての仲間たちをロードムービーよろしく、ひとり、またひとりと訪れ、共に真相を解き明かそうとするのだが・・・。

まず、見ていて、実に爽快。なにがって、原作がDCコミックなだけあり、劇画をもとにしたアクションのカット割りが小気味良いのは当然として、チームを組むことになる名優陣の“所作”がとにかく魅せるのである。もちろんモーガン・フリーマン、ジョン・マルコヴィッチ、ヘレン・ミレンといったオスカー常連俳優たちが取っ組み合いの格闘など出来るわけがない。彼らは実質的にはセリフの応酬、軽妙なやり取り、表情の変化という、いつもながらのメソッドを踏襲しているに過ぎず、そこにせいぜい、銃を構え、撃つ、という行為が加わったくらいなのだが、しかしそこではキャラと所作とが連動した強烈な個性が刻印される。彼らは特殊スーツや仮面などを用いなくとも、もはやそのままの姿でヒーロー映画のキャラクター然とした存在感を香らせ、他者を圧倒しうるのだ。

とりわけ“撃つ”で象徴的なのは、終盤のヘレン・ミレンだろう。『クィーン』ではタイトル・ロールのエリザベス女王を演じて主演女優オスカーを手にした彼女が、真っ白いドレスにブーツを履き込み、沈着冷静に機銃を構えて一心不乱に敵を粉砕してかかる。その光景はまるで女王が御自ら戦場へご出陣あそばしたかのような衝撃を伴うものだ。

翻っていうなれば、ここに集いし超ベテラン俳優陣は、誰もが所属事務所などからの依頼を受けてこれまでおびただしい数のミッションを遂行してきた者たちなのである。その存在感は変幻自在、なおかつ瞬時に大人数の心を掴み取ったり粉砕する特殊能力は、まるで本作で描かれるスペシャリストとかなり近似した職務と言っていい。

ひとり、またひとりと現場から去っていく。生命を散らしフェイドアウトする者もいる。そして次なるミッションでも再び火花の下を掻い潜る者もいる。彼らは再び同じ現場で出逢うこともあるかもしれないし、もう二度と再会しない可能性だってある。過去に敵だった者が今は仲間ってことも大いにあり得る。

劇中では言及されないものの、この辺にオーバーラップを禁じえない自分がいた。俳優とはかくも特殊な職務領域である。『RED』はその延長線上にぶちまけられたアクションだからこそ、演じる俳優たちのキャリアも含めて、極めて楽しく嬉々として映えるのだろう。

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2011年1月27日 (木)

ソウル・キッチン Soul Kitchen

ファティ・アキン。彼の作品からは人種の混在から立ち昇る尊厳が見え隠れする。そしてドイツに居ながらにして、東洋と西洋の交錯するイスタンブールのボスポラス海峡にいるかのような潮の香りがする。

僕がロンドンのミニシアターで異国人に挟まれながら(もちろん彼らからすれば僕のほうが異国人だが)『愛より強く』という作品を観たとき全身に電流が走るような衝撃を覚えた。ポスターには「新時代のロミオ&ジュリエット!」という売り文句が書いてあったが、そんな茶を濁した言葉では始まらないだろう、と思った。これはまさに“叫び”の映画だった。愛に関する苦悶の叫び。またどんなに叫んでもその声は当事者以外には全く聞こえない。そんな絶望ともどかしさの混在する映画でもあった。

そんな情景を感動的なレベルにまで昇華させたファティ・アキンという才能に心底恐れ入って、エンドクレジットが終わってもしばらく席から立ち上がれなかった。ようやく立ち上がると背中が汗で濡れていて、冬の痺れる寒さの中ガタガタ震えながら帰途に着き、それで案の定、風邪をひいた。寝込みながらもずっとこの映画、そしてファティ・アキンのことを考えていた。「いつかこの監督は凄いことになる」と。

結果的に「なった」のである。凄い監督に。『愛より強く』はベルリン映画祭にて金熊賞を受賞、続いて『クロッシング・ザ・ブリッジ~サウンド・オブ・イスタンブール~』というドキュメンタリーが挟まり、『そして、私たちは愛に帰る』はカンヌにて最優秀脚本賞を受賞。そして最新作『ソウル・キッチン』はヴェネツィアにて審査員特別賞を受賞した。30代の若さですでに3大映画祭にて受賞を重ねてしまったのだ。

なので、僕は前文をもっと具体的に書き変えることにする。「この監督は次回作で頂点を極める」と。というのもこのファティ・アキン、『愛より強く』『そして、私たちは愛に帰る』に続く3部作最終章として“悪”について描いた新作を準備中なのだ(一部の報によるとボクシングを扱ったストーリーになるとか)。で、『そして、私たちは愛に帰る』でヘトヘトになったエネルギーを充電し次回作へ注ぐパワーに変えるために選んだ題材が、この『ソウル・キッチン』なのである。

Soul_kitchen

この映画に触れて面食らった。混沌がなにかを産み落とす瞬間を活写してきたこれまでの作風とはまるで違う。純然たるコメディだった。そして自分が何か大きな勘違いをしていたことに気づく。僕は天才や巨匠と呼ばれる人たちは自ら進んで、喜んで深刻な題材に身をさらすものとばかり感じていた。だがファティ・アキンも同じ人間なのだ。傷つきもするし、映画作りで疲労困憊した身体や気持ちをリフレッシュさせたいときもある。この映画に漂う底抜けの明るさを享受しながら、逆説的にこれまでの彼がいかに身を削って映画を織りなし、苦しみや悲しみをスクリーンに刻みつけてきたのかが理解できた。

と言いながら、この『ソウル・キッチン』ときたら、単純に“息抜き”と呼べるかというと、そう一概にはいえないパワフルなドラマなのだ。まずもって僕がこれまでに感じていた“ボスポラス海峡の香り”はしない。その代わりに舞台がドイツのハンブルグなのにも関わらず、映画はタイトルからも連想し得るソウル・ミュージックで溢れ返り、“ファミリー”の切っても切れない絆について描かれ、そしてジャンクな食材が天才シェフ(ただしアルコール中毒)の神ワザによって瞬く間に美味しい食事となってテーブルに並んでいく。まるで北米のブラック・ムービーがここドイツに出現したかのような国籍不明の混濁ぶり。しかしそこには当然、一人たりとも黒人は登場しないのだ。

『愛より強く』や『そして、私たちは愛に帰る』において主人公はトルコ~ドイツという自らのアイデンティティにまつわる“心理的距離”を自分の足で具体的に往復してみせる。対する『ソウル・キッチン』では福袋のように詰め込まれた様々な要素を駆使して、遠く離れた場所(例えば黒人が虐げられ這い上がった歴史を持つニューオリンズをはじめとする都市なのかもしれない)とこのハンブルグの小汚いレストランとを「移動することなく」精神的に直結させてみせる。この手法の変貌ぶりが心地よいグル―ヴを生み、観客の胸に迫ってくる。

「今後、ドイツではない他の場所を拠点にすることも常に考えている」

とファティ・アキンは言っていた。フィルムメーカーとして世界的な知名度を獲得した彼は今やヨーロッパのみならずニューヨークでだって映画製作できるだろう。というかそちらの方が資金が集まりやすいに決まっている。

ドイツのハンブルグに生まれ育ったトルコ系ドイツ人が、活躍の場所を世界に広げようとしている。でもだからこそこれからは「実際にその場所に立つこと」よりも「精神的な連帯」こそが重要となっていくだろう。例えばニューヨークに居ながらにして同時にハンブルクやイスタンブールと心を重ね合わせることのできるソウルフルな連帯が。『ソウル・キッチン』には笑いの中にそのような“世界のどこにいてもふらりと立ち寄れる居心地の良い場所”を感じ、ファティ・アキンによるひとつの意志表示を受け取ったような気さえしたのだった。

そして個人的にひとつ気になっていることがある。恐らく本作でいちばんメインとなっているスチールはこれなのだが、

Soul
これを目にして、ダ・ヴィンチによる傑作絵画のことを想起しない人はいないだろう。

The_last_supper_2 
ファティ・アキンの単なる悪ふざけなのか、それとも聖書にも何らかの精神性=ソウルを通わせようとしていたのか。そういう疑問が込み上げてきた頃合いにはせっかく初来日を遂げたファティ・アキンも既に日本を後にしていた。ほらね、人生はやっぱり少しだけ間に合わない。

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2011年1月17日 (月)

グリーン・ホーネット

夜のしじまを突き破り、愛車“ブラック・ビューティー”のエンジン音と共に現れたヒーロー“グリーン・ホーネット”。彼の敵は新聞王だった亡き父の威光?オスカー俳優クリストフ・ヴァルツ演じる闇の帝王?いやいや、注目のメイン・ファイトはまた別のレベルで巻き起こっている。とどのつまりこれは、「作家性」と「大衆エンタテインメント性」とが凌ぎを削った結果、如何なる課題を今後に残したのかと、そういう検証映画といえるのではないだろうか。

Greenhornet
ミュージックビデオやCMから映画まで、デジタルとアナログの絶妙な隙間を縫って愛らしい創造性&作家性を発露させてきたミシェル・ゴンドリー。インディペンデントの映画製作で一定の成果を収めた彼が自らを次のレベルへと引き上げたいと考えたのは表現者の願望として当然のことだろう。そして自らの手の内を超えてアイディアを膨らますにはこれまでより遥かに大きなバジェットが必要となる。

その作品は限定された観客数ではなく、桁違いの世界の観客へ届けられるだろう。観客の目も厳しくなる。失敗した場合のリスクも半端ではない。それに第一、ビッグバジェットにはそれなりに回収見込みのある企画が必要だ。

これまでのゴンドリーの創造性にプラスして、何か企画の芯となる訴求力のあるもの。その二者を結びつけたものこそ「緑蜂」という1930年代より語り継がれてきた題材ということになるのだろう。そして追い打ちをかけるように、本作の3D製作までもが発表された。

このヒーローときたら、序盤から3D効果もあってか、実際よりもかなり太めに映る。スラッとした体型でなくデブッとだらしなく、悪に対する考え方も曖昧極まりない。なにしろ「悪に近づくためには、自分たちが悪を装えばいい」という横暴な論理を振りかざすのだ。

隣でフォローする“カトー”は、セス・グリーンとの丁丁発止のやり取りにも押しの弱さが目立つ。というよりもこれは僕がまだスクリーンでジェイ・チョウという俳優を見慣れておらず、彼の演技にどう反応していいのか決めかねているせいもあるだろう。(ちなみに台湾をはじめ中華圏では大人気で、中国でのキャンペーンでも主役や監督そっちのけでマイクをかっさらっていた。中国市場を目した時に彼の存在は計り知れない威力を発揮するのかもしれない。そして中国では旧正月に公開―)

そこに散りばめられた注目のゴンドリー・テイスト。僕らはまず、セス・ローゲンがピンチに陥った際にカトーの脳内で起動する“カトー・ビジョン”にてその真髄を垣間見る。戦闘モードに入った彼は通常の時間の速さを超える勢いでセンサーをめぐらし、どこをターゲットにして、どの順番で敵を撃破していくかをシミュレーションする。そして次の瞬間にはそれと寸分たがわぬ結果が3D映像で炸裂するというわけだ。(ん?これってどこか『シャーロック・ホームズ』の格闘シーンに似てないか?)

周囲がゆっくりとうごめく中、カトーだけが疾走し、くぐりぬけ、交わし、蹴り、ぶっ飛ばす、という一連の3D趣向。こいつがかなり斬新な仕上がりを見せている。さすがゴンドリー!!惜しむらくはこれがあっという間に終わってしまうのだ。もっと観ていたいのに。

もうひとつゴンドリーらしさを放つのは、「グリーン・ホーネットを殺せ!」という指令が人から人へネズミ算方式で拡がっていくのをスプリット・スクリーンで描く場面だ。どんどん画面が増殖してそれぞれに話が進行していく。これはいったいどのように撮られたのだろう?これこそゴンドリーがミュージック・クリップなどで描きそうなアイディアの炸裂。ファンは思わずほくそ笑んでしまうのではないか。

また、本作の脚本は主演のセス・ローゲンとエヴァン・ゴールドバーグのコンビが執筆を担当しているが、数々のコメディ作にてヒットを連発してきた彼だけに笑いの要素は強い。が、これを3D作として見せる以上、彼が前に出るよりは、あくまで“グリーン・ホーネット”が(もっと言えばアクションシーンが)前に出るべきだし、彼とカトーのセリフの応酬を我々があえて3Dで見なきゃいけない義務は存在しない。

パーツパーツには魅力が光るものの、いざそれを収拾、接合する段となってひとつの完成体になりきれていない、というのがゴンドリー映画のファンとしての正直な意見だ。本作はこれからも紡がれていくゴンドリー伝説におけるちょっとした変わり種として歴史に名を刻んでいく使命を宿しているのだろうか。

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2011年1月16日 (日)

ウッドストックがやってくる! Taking Woodstock

僕が説明するまでもない。1969年、時代の象徴とも言うべき音楽フェスが開催された。

が、その裏側にひとりの平凡な男の奮闘があったことは知られていない。彼の名はエリオット・ダイバー。ヒッピーでもなんでもない、30代のデザイナーだ(そしてゲイらしい)。潰れかかった家業を立て直そうと農村部のモーテルに戻ってきた彼は、開催場所を探してさまよう巨大イベント「ウッドストック・フェスティバル」に運命の絆を感じ、その誘致に打って出る。

その日から状況が一変した。近隣住民からは苦情が殺到するわ、時代の寵児たるオーガナイザーが視察に訪れるわ、一報を訊き付け記者たちも多数詰めかけてくるわ。いまや全米がこの村に注目していた。その非日常の光景にエリオットもかなり上気気味。でもまだ本番は始まってすらいない。やがてこの村がどんな興奮のるつぼと化していくのか、彼は想像もしていなかった―。

Taking_woodstock_poster_2   
ラスト、コーション』のアン・リー監督といえば、台湾出身ながら『楽園をください』『ブロークバック・マウンテン』など、アメリカ文化に深く寄り添った作品を手掛けてきた。『ウッドストックがやってくる!』もまさにその系列に並べられてしかるべきだ。

1年以上前のカンヌ映画祭で無冠に終わり、日本公開に随分時間のかかった本作に“特筆するにあたらない凡作”という先入観を働かせる向きも多いかもしれない。僕も上映開始から20分ほどのスロースターターぶりに驚いた。でもこれはアン・リーの周到なタイムテーブルなのかもしれない。つまりは“田舎時間”。これぞ世界の中心から遠く遠く離れた、田舎の体感時計なのだ。

そして本作最大のダイナミズムは、この田舎時間が徐々にウッドストックという名の巨大な嵐に呑みこまれ、やがては歴史が何周も旋回しようとも忘れられぬ伝説の聖地=宇宙の中心となっていく過程にある。観客はそれを教科書的事件としてではなく、自分の足でその渦中に立ち、吹き荒れる暴風雨を視覚的に体感することになる。

「ウッドストックの会場はこっちですか?」

誰かがエリオットに尋ねる。初めはポツリポツリと始まる人の到来。そして次の瞬間、ガツンと大波が襲いかかってくる。あっという間に村を埋め尽くした人、人、人。その数40万人!この何処までも拡がっていく圧倒的な絵力が凄い。しかも長回しを多用するという横暴さ!このラブ&ピースのうねり!むせ返るほどの高揚感!そしていつしか巡礼のごとく澄み切っていく気持ち―。

中盤からの怒涛の展開に体内時計も大いに狂わせられながら、僕らはエリオット・ダイバーの視点で草原、森林、湖に囲まれた会場のあっちこっちへと奔走する。そしてふと気付くと、どこからか微かにギター音が聞こえてくる。

「ついに、はじまった・・・」

俄かに表情を引き締めた息子(エリオット)に、父がこう言う。

「ここは俺が引き受けるから、お前はステージへ行って来い。何が巻き起こるのか、その目に焼き付けてくるんだ」

そこからエリオットは、人波をかき分けてどんどんステージへ向かって、宇宙の中心に向かって駆け寄ろうとする。

しかし結論からいえば、彼は圧倒的“傍観者”のままでこの作品を終える。

彼は映画の主人公でありながら、ウッドストックにおいては最後まで裏方にも満たない端役で終わる。でもそれゆえ(同じく歴史の傍観者でしかあり得ない)僕らは最後までエリオットの視点にナビゲーターとしての役目を安心して託せるのかもしれない。

だからこそ、いま映画を見終えた僕らは、万感の思いと愛情を込めてエリオットをこう呼ぶと思うのだ。

「宇宙の中心を間近で体感しながら、結局ステージまで辿りつけなかった男」と。

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2011年1月11日 (火)

しあわせの雨傘

この映画が終わるころ、頭の中では延々とドヌーブ様の歌声が「セ・ボー・ラ・ヴィ~♪」と渦巻いている。いまやオープニングの真っ赤なジャージ姿とは似ても似つかぬ真っ白な姿。全身にライトを煌々と浴びながら、クライマックスのドヌーブ様は高らかに歌い上げる。「人生は美しい」と。

恐らくは冒頭の“赤ドヌーブ”様も、あのときはあのときで自分の境遇に満ち足り、全く同じ言葉を胸に抱いていたに違いない。しかし赤と白の差は歴然としている。彼女は今や、地球が太陽の周りを周回していることを知ってしまった---夫の経営危機に際して立ち上がり、平凡な主婦から敏腕オーナーへと転身を遂げ、さらには「女性は据え置き壺(原題のPotiche)じゃないのよ!」との掛け声のもと、男たちがせっせと築き上げてきたファンタジー的男性社会こそを“据え置き壺”へと追いやってしまったわけだ。これぞ70年代コペルニクス的発想。

Potiche
思い返せば、フランソワ・オゾン演出は時として『8人の女たち』『エンジェル』のように“ある時代の一点”における映画的ファッションに浸かりこむことで、ノスタルジー以上の特異な効果を生み出してきた。

その傾向は今回ドヌーブ様とがぶり四つに組むことによってますます顕著なものに。だが決定的に違うのは、本作が70年代という特殊な時代を描くとともに、過去から現代に突きぬける偉大な映画レジェンド=ドヌーブという一本筋の通ったベクトルを刻むことで、決して“昔話”の域に甘んじないという点だ。

もちろん、邦題を見ても分かる通り、ドヌーブの『シェルブールの雨傘』に代表される過去の偉業はさりげなく、しかし絶対に外せない要素として添えている。とりわけオープニングで小鳥や小鹿たちにウィンクしたり、大自然の神秘に心震わせたり、その感動を詩を思わずノートに書き留めたり…そんな映画ならではのファンタジー&メルヘン・タッチが笑いを誘う。

果たしてこれらはセルフ・オマージュ&パロディの一言で片づけていいものか。いや僕には、これがオゾン流のリアリズムを立ち上げるための手法のひとつだったようにも感じられた。

つまり、「ビバ70's」なノスタルジック演出=焦点のボヤけた皮膜のごときフィルターは、そのまま当時の女性に向けられたファンタジー的固定観念を意味していたのかもしれないし、さらには現代社会でもなお、あらゆる領域にこの種の“フィルター”がはびこっているのだと、密やかな告発さえ含んでいるようにも思える。フェミニズムよりももっと広い意味で。

そういう提起を突きぬけて、本作のラストは男性も女性も老いも若きも関係なく、誰もが等しく祝祭性に身を浸すことのできるものに仕上がっている。あらゆる人にとって可能性が開かれ、フランソワ・オゾンの文脈で言うならば当然ゲイという要素も含まれてしかるべき。その意味で、人生は誰にとっても美しいのだ。まさに「セ・ボー・ラ・ヴィ」。

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ちなみに、ドヌーブの亭主役を演じるのは大好きな俳優ファブリス・ルキーニ。クラピッシュの『PARIS』や『モリエール/恋こそ喜劇』(←それぞれ拙ブログのレビューに飛びます)でも飄々とした演技で場を湧かせる天才だ。

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2010年10月21日 (木)

【レビュー】ソーシャル・ネットワーク

フェイスブックの創始者マーク・ザッカーバーグ。ハーバード在学中に着想、拡大させたその壮大な構想の原点にはいったいどのようなエピソードが隠されていたのか?

ストーリーだけを追うと非常にオーソドックスな映画だ。ひとりの女性が手元から去った(というか付き合っていたのかさえ分からない)のをきっかけに、腹いせか、それともゲーム感覚か、とにかく瞬く間に世界中の5億人ものユーザーと繋がってしまった青年の話。

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その意味で、これはメディアを使って神になろうとした『市民ケーン』かもしれないし、または領土拡張を図る新時代の『アレキサンダー』なのかもしれない。いやこれにとどまらず、『ソーシャル・ネットワーク』には、学園、恋愛、友情、裏切り、訴訟、ビジネス、誘惑といった映画の様々なジャンルが一緒くたにされ、コンピューターの演算処理のごとくジェットコースターのごときスピードでスリリングに絡まり、ほつれ、ほどけていく。特にそのセリフの速度、量たるや尋常ではない。

ただし、そこには全くの抒情性が欠落している。これら膨大なセリフの中に、ほんとうに大切なものは果たしてどれほどあるのか。デビッド・フィンチャーの演出、アーロン・ソーキンの脚本はこの物語を推し進める幾人かの登場人物の感情にベールをかぶせ、とりわけこの人間ともモンスターとも取れるひとりの青年の相貌を不気味なまでに創出していく。

そして面白いことに、本作のザッカーバーグは感情が読み取りにくい代わりに、自身が執筆しているブログでは他人に対する罵詈雑言をたやすく吐き出している。まさに感情を外付けハードディスクに保存しているかのようなキャラクター造型。きっと多くの観客が彼の佇まいに(良くも悪くも)人間の行きつく先を垣間見るのではないだろうか。そして彼の行動を俯瞰した時、実生活で叶わぬならばせめて構造的に人と繋がっていたいという、あまりに切実な想いを感じてしまうのは気のせいだろうか。

そうして翻弄されるうちに、ふと映画は終幕-。

え、ここで終わりなの?と驚いてしまった。あまりにあっさりと、余韻のない幕切れ。もしかすると2時間半、3時間くらいにも引き延ばせたかもしれないこの物語を、本作は2時間ちょうど(!)で終わらせる、というか切り上げているのではないか。これも抒情性を剥ぎ取るひとつの方法なのだろうか。例えるならば、サイトからログ・アウト、あるいはPCをオフにするの感覚と似ている。なんだかそのやり方も含め、本作自体が恐ろしいほどネットっぽくてリアルだ。

ただし、それでいてデヴィッド・フィンチャーの創り出すひとつひとつのシークエンスは、相も変わらず深い闇と仄かな光とが同居し、静謐な中に凄味を秘め、またあらゆる感情を削ぎ落していく怪物性をも十分に匂わせている。演技面でも若き俳優たちがこの状態を作り上げていくまでに何十回、何百回とシーンを繰り返させたそうだ。脚本家アーロン・ソーキンの目にはその演出ぶりが「そうすることでオペラ的な演技に向かおうとする本能を鈍らせ」るように見えたそうだ。このあたかも表面的な世界を作り上げるのに、実はとてつもない綿密な創作過程と研ぎ澄まされたビジョンを擁していることも忘れてはいけない。

多くのフィンチャー作品と違って一滴も血は流れないが、その上をゆく危険なものが脈々と流れていたような気もする。果たしてこの映画の電源を切った時、あなたの心の中には残るのはいったいどんな感情だろうか?

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ナイン・インチ・ネイルズとしても知られるトレント・レズナーによる楽曲がフィンチャーの映像&コンピューターをめぐるストーリーと怖いくらいの相性の良さでハマっています。

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