2011年3月28日 (月)

【レビュー】わたしを離さないで

とある病院の手術室。そこにはベッドに横たわる青年トミーと、彼を見守る女性キャシーの姿があった。いまキャシーの脳裏に蘇るのは、二人がまだ幼かった頃の記憶。人里離れたヘールシャムの寄宿学校で共に出逢い、はじめて目線を、そして言葉を交わした日の記憶。あの頃、寄宿舎生活が世界の全てだった。彼らに与えられた蜻蛉のように短い人生についても、それが当たり前なのだと受けとめていた。キャシーとトミーと、それにもう一人の親友、ルース。この物語は彼ら3人の幼なじみたちの、生きた証。その傍らにはいつしか、"Never Let Me Go"のけだるくも甘美な調べが流れている―。

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原作を読まずして映画に直接的に飛び込んだ人は多少なりとも驚くかもしれない。本作が秘めた“秘密”にではなく、むしろ主人公らがこの世界から決して逃げ出さないことに。その意味で本作はマイケル・ベイ監督のあのSF映画のような世界観を持ちながら、向かう意識のベクトルはむしろその真逆と言っていい。

原作者は、長崎で生まれ、5歳より英国で育ったカズオイシグロ。そのふたつのアイデンティティの拮抗のせいか、彼の作品では「当たり前だと思っていたこと」と「そうではないこと」によって主人公の意識の中にゆるやかな断層が生じていくことが多い。

また彼の作品のトレードマークといえば、主人公による一人称形語りである。一人称形式の物語は時として読者に嘘をつく。これは読者のミス・ディレクションを容易にする手法とも言える。昨夏お話を伺った英文学の先生によると、「ゆえにイシグロ作品において読者は“陪審員”になったような気持で主人公の言葉を精査していかなければならない」とのこと。

もしもあなたが既に映画をご覧になっているならば、ぜひイシグロ氏の来日会見の模様にも目を通してもらいたい。彼自身が何を考え、どのようなメッセージを込めて本作を執筆し、また自らが映画製作を企画してエグゼクティブ・プロデューサーまで務めあげたのか、その想いが理解できるはずだ。

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キャリー・マリガン、アンドリュー・ガーフィールド、キーラ・ナイトレイの三すくみがマーク・ロマネクによる静謐感あふれる映像で包み込まれた時、そこで感じるのは原作そのままの空気であり、色彩であり、温度だった。これらを目にすると、スタッフやキャストがいかに根底部分を共有してこの作品世界のレンガをひとつずつ積み上げてきたか、その齟齬のなさに感銘を受ける。

そうして気づかされるのは、ここで描かれる彼らの「短い人生」と、我々の生きる「あるがままの人生」にさほど違いはないということだ。そのうえ彼らがフィクションだからこそ、僕らはより多くのものを彼らの人生に投影して、その照り返してくる光の中に自分自身を見出さずにはいられない。人生は短いのだ。愛する人と共に歩める時間だって限られている。その中で自分にとっていちばん大事なものとは何かを常に問い続けることが求められる。

…と、ここまでを3.11以前に書いていて、もはやこれ以降言葉が続かない。

これまで生や死を抽象的に眺めやることしかできなかった我々が、いま、あまりに膨大な悲劇と危機に直面し、誰もが心の中で恐怖におののき、寝ても覚めてもカタチにならない嗚咽を繰り返している。そんな時にこの映画に何が語れるだろうか?何の役に立つだろうか?

もはや「本作を通して生きることを実感する」などといった文言は全く縮尺の合わない定規と化してしまった。この無力感は映画に限らずあらゆる人たちがいま感じていることだろう。

ただ、そう思いながらも、僕は本作で主人公らに微かな希望と絶望をもたらした“芸術”について考えずにはいられない。

主人公らは死を恐れるだろう。愛する人と離れ離れになるさだめから逃れようと、第三の道を求めるだろう。そのときに唯一、彼らが救いを見出すツールが芸術だった。懸命に描いた絵画をようやく提出した時、大人たちが口にする答えはあまりに残酷であり、それはそのまま我々の棲む現実世界における芸術の役割をリアルに代弁するものでもあることにハッとさせられた。

芸術が無くたって生きていける。無価値と宣言することだっていとも簡単だ。でも僕はすべての芸術はこの“無価値”から出発しているのではないかと想像する。無価値だと知っているからこそ、僕らはそのゼロの線上におぼろげに姿を現す、胸を突き動かす“なけなしの何か”を受けとめ、そのちからを信じたいと願うのだろう。これはもはや信仰に近い所業かもしれない。

恐らくカズオイシグロも、マーク・ロマネクも、英国を代表するキャスト陣も、普段からまったく同じ思いで芸術に、自己表現に真向かっているはずなのだ。

そして我々も、いつしか、必ず。

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2011年3月10日 (木)

【レビュー】ブンミおじさんの森

その名前をようやく覚えられた。なおかつ一息で言えるようになった。アピチャッポン・ウィーラセタクン。このタイの映像作家の最新作『ブンミおじさんの森』がカンヌ映画祭でパルムドール(最高賞)を受賞した瞬間、世界は真っ二つに割れた。なぜこんな作品に?と激高する人々。至極当然のとして頷く人。これから本作に真向かうことになるであろう観客たちも、大方この二者へと分類されていくのだろう。その反応を事前に察知していたかのように、審査員長のティム・バートンは記者団に対してこう語った。

「世の中が西欧的、ハリウッド的に染まる中、自分とはものの見方がまるで違う世界もあるんだということを、この映画は教えてくれた」

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本作に触れたとき、正直、面食らった。この作品をどのように言葉で説明すればよいのか。物語的な流れがあるようでいて、その過程や結末は緩やかに連なっていくのみ。作り手の側から「こう感じてほしい」という願望もあまり聞こえてこない。この映像の冒険はまさに自分の感覚だけを頼りに体感していくものなのだろう。

僕らはまるで冒頭に登場する水牛にでもなったかのように深い煙か霧の中にいざなわれ、ふと気付くと、ブンミおじさんがゆっくりと死期を迎えていく様子に寄り添っている。タイの森は人間の預かり知らない精霊の世界へと続いているという。夜になるとこの森の奥から目を赤く光らせた猿人が訪れる。「やあ、父さん、僕だよ」と猿は言う。「ああ、お前なのか」とブンミおじさん。長らく離れ離れになっていた親子が、いま、人間と猿というかたちで再会している。それでいいのか?いいのである。続いて死んだ妻が食卓に浮かび上がってくる。「ひゃあ」と誰かが声をあげる。「こんばんは」。「ああ、お前だったのか」「ええ、そうです、私です」。そう、これもまた一つの再会のかたち。

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こんな不可思議なやり取りを経て、いつしか僕らはこの森で何が起きてもそれを自然と受けとめるようになっている。ブンミおじさんは森をぐんぐんと突き進む。まるで魂が吸い寄せられるかのように。その終着地でもまた、なにか特別に神秘的なことが起こるわけでもなく、人間の生命はごく当たり前のように、より大きな存在へと還元されていく。その境界線は実に曖昧だ。西洋ならばこの森一帯を含めて“リンボ”とか呼んでしまうのかもしれない。これらのあっけない生命の休符を間のあたりにしながらあらためて気づくのは、ブンミおじさんを死へと導くこの森が、光の照らし出す緑とその影のもたらすコントラストによってあまりに美しく彩られていたことだった。

なぜ、アピチャッポンはこれほど世界的な評価を受けているのか。たとえば、この森をひとつを取ってみても、生者が死の間際にそこへ戻ってくる理由、あるいは死してなおそこに留まりつづける理由が自ずと感じられる。アピチャッポンの描く映像にはそれがそのままの状態であってすでに磁場を帯びている。言葉や説明を持ちいなくとも誰もが納得し、どこか穏やかな気持ちになって陶酔してしまう幽玄性がある。おそらくこの『ブンミおじさん』に魅せられた観客は、あらゆる生命が森へと導かれるように、また再び彼の映像を求めて自ずと劇場の扉を押し開くことになるのだろう。

観客が何度となく劇場の扉を開き新たな映画へと身を投じる感覚を、これすなわち“輪廻”と結び付けて考えるのは、いささか乱暴すぎるだろうか。

また、さきのティム・バートンは「自分とはものの見方がまるで違う世界」と語ったが、実は彼に近しい映画業界、とくに俳優の仕事などをしている人にとっては、この輪廻感覚は非常にリアルなものなのではないかと思ったりもする。

ひとつの役に取り組んでその役目を終えると、今度はまるっきり設定を変え、過去の記憶をほんのり引きずりながらも別の人生(作品)へと踏み出す。その繰り返し。前の作品で共演した誰かと次の作品では全く違う立場で再会することもあるだろう。今ではゴリラの恰好をした役者が、以前の家族役で共演したことのある俳優と遭遇し、うっかり「お父さん…」と呟いてしまうことだってあるかもしれない。たとえばそれが渥見清ならば彼がどんな役に徹しようとも、誰もがやっぱり口をそろえて「寅さん」と呼びかけてしまうように。あるいは「おいちゃん」が「おいちゃん」でしかないように。。。

森と精霊とが不可思議な和音を奏でるこの森で、そんな想いがふとよぎったりもした。

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2011年3月 5日 (土)

【レビュー】神々と男たち

舞台は90年代のアルジェリア。とある村の丘の上にフランス系の修道院があった。かつてはフランスの植民地だったこの国である。それに住民の多くはイスラム教徒。時代をさかのぼれば少しは対立もあったかもしれない。しかしいま、修道士たちは彼らと我をぶつけ合うあうわけでもなく、困ったときには互いに救いの手を差しのべあい、その暮らしはいつも互いの存在への尊敬と感謝と共にあった。

だが、この国の政情が不安定になるにつれ、過激派組織が動きをみせはじめる。不穏な空気は村にも伝わり、周辺では外国人の生命が脅かされる事件が多発。「これ以上この国に滞在しては生命が危ない」。本国からの帰還命令を受けて修道士たちは自らの活動の、信仰の源泉についてもう一度おのれに問いかける。かつては恋もした。神を疑ったこともあった。しかしいま私はこの地を選び、職務を全うすることに己の人生を賭けている―。

食卓を囲んだ修道士たちは、その日、一人ひとりの意見にじっくりと耳をかたむけあい、やがてひとつの結論に達する。何が起ころうとも運命を受け入れ、この国、この村のために祈りをささげつづけるのだ、と―。

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カンヌ映画祭にて本命と言われ(最高賞に輝いたのは奇しくも日本で同日公開の『ブンミおじさんの森』だった)、審査員特別賞(事実上の次点だが、カンヌではこれを“グランプリ”という名称でよぶ)を受賞、先日開催されたフランスのアカデミー賞と言うべき「セザール賞」でもすべての頂点たる作品賞に輝いている。が、この祈りと決断の物語はアメリカのアカデミー会員には届かず、アカデミー賞外国語映画部門ではギリギリのラインで候補入りが叶わなかった(『告白』と共に最終選考で落ちた、というわけだ)。

96年に起こった極めて凄惨な、そして謎の多いこの実話の結末を知る者にとっては、クライマックスで森の中に消えていく彼らの姿に断腸の思いを禁じ得ないだろう。おそらくここで交わされる言葉の数々も、かろうじて生命を救われた修道士たちの証言によって再現されている部分も多いのだろう。神につかえて生きてきた彼らの慎ましいばかりの人生が暴力によって脅かされるとき、彼らは無力であり、神はただ無言だ。しかし彼らの表情を見ていると俄かに恐怖が遠のいていくのを感じる。それぞれの葛藤を乗り越え、いまではしっかりと前を向き、以前にも増して自らの信仰に真向かおうと努力しているかに思える。そんな彼らを慈しむかのように窓からは神々しい光が差し込んでいる。それらはカタチとしては見えない何か崇高な存在を指し示しているのだろうか。

なるほど、グザヴィエ・ボーヴォワ監督は宗教上の対立によって世界の平穏が失われた2000年代を総括するかのように『神々と男たち』を奏でたのかもしれない。

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だが、一方で翻って言うなれば、これは宗教や国境、政治や肌の色など何も関係のない“私たちの物語”ということもできるのだろう。本作とは直接的には関係ないものの、先日来日したカズオイシグロ氏が自作「わたしを離さないで」についてこんなことを語っていたのを想いだす。

「人生とは考えているよりも短いもの。だからこそ、限られた時間の中で自分がいったいなにをすべきかを一生懸命に考え、行動してほしい。そういう願いをこめてこの作品を執筆しました」

もちろん『神々と男たち』と『わたしを離さないで』とはテーマも題材も作者も違うし、片や実話であり、もう片方はSFである。だが、修道士たちが与えられた極限状況に、僕は『わたしを離さないで』でキャシーたちの置かれた本当に短い人生のタイムリミットがシンクロして深く重なっていくのを感じたのだった。

そのうえでやはり本作も我々観客に問いかけてくるのだ。あなたはどう生きてますか?と。なにか人生を賭けて懸命に貫けるものはありますか?と。

なにも作り手は観客に対して“原理主義”的に貫けと言っているわけではない。ここに描かれる修道士たちはむしろ他者と価値を共有し、手を取り合って進んでいくことにこそ喜びを見出している。自分が傷つけられようとも、他人を傷つけることは決してない。そのような素朴でささやかな存在だからこそ、我々の目には彼らの生き方が逆に、圧倒的なまでの強靭さとして映るのだろう。

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2010年9月 3日 (金)

イリュージョニスト

友人の結婚式のために帰郷した際、滞在先のホテルの朝食ルームでなぜか映画の話題がチラホラと漏れ聞こえてきた。「昨日、テレビで変な映画を見ちゃった」「ああ、あのアニメでしょ!おばあちゃんが自転車で走るやつ!」 彼らの会話の中心には夜中にたまたま放送していた『ベルヴィル・ランデブー』の存在があった。そして僕もまた、夜中の3時近くまでテレビの前でその映画の釘付けになっていた張本人だった。翌日に友人代表の大事なスピーチが控えていたにもかかわらず。。。

そのシルヴァン・ショメー監督が描く最新アニメーション『ザ・イリュージョニスト』。期待が高まらないわけがない。イギリス滞在の最後の日にミニシアターに足を運ぶと、お年寄りから子供まで大盛況の客入りだった。各紙のレビューでも絶賛に次ぐ絶賛。

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1950年代、パリの劇場で幕を開ける。ひとりの老奇術師が観客の前に立ち、ひと昔の芸風で失笑を買っている。興行主からは「もうこなくていいよ」と告げられ、彼は新たな劇場を探して英国へと旅立つ。しかし軽音楽が大流行のロンドンでもまた観客の相手にされるはずもなく、彼はキングス・クロスの駅から列車に乗り込みどんどん北上していく。そこでたどり着いたひとつの田舎町。ひとりの少女。次々に技を繰り出す老奇術師を本当の魔法使いだと思いこんだ彼女は、旅立つ彼の後をこっそりついていくのだが。。。

ジャック・タチの脚本をもとに形作られた本作、実は劇中にコミュニケーションが成立するような台詞が一行たりとも登場しない。すべてを動きと音だけで伝え、それによって言語を越えたところに芽生える老奇術師と少女との絆、奇術"illusion"が放つ残り香、消えゆく時代への哀愁といったものをより鮮明に浮かび上がらせている。

奇術師は少女の耳元からサッと硬貨を取り出す。少女はそれを真実だと思いこんで大いに喜んで見せる。あの赤い靴も、白いコートも、あれもこれもと指をさす。奇術師はその願いを叶えてやろうと懸命になって奔走する。

はたして彼らの末路は幸福なのか、不幸なのか。世の中どんどんillusionが消え去っていく。信じる心も失われている。奇術師が少女に渡した手紙に書かれていた言葉は、50年代のみならず、今の観客の心をも大きく揺さぶるものがある。

奇術は奇跡ではない。事実を異なった角度で見つめる行為に過ぎない。映画もまた然り。1秒間に24コマの静止画が目の前を通り過ぎていくことによって、残像のイリュージョンが積み重ねられていく。たかが虚構。だがそれらが映し出されている間だけは、観客もその世界の法則にどっぷりと身をゆだねているのも、また事実。

クライマックス、消えゆくネオンの灯りと共に、真っ暗になる。しかしこれが奇術に付き物のワン・ツー・スリーのカウントだと考えればどうだろう。

「スリー」のあとに映画の幻は確実に消え去る。しかし、観客の心の中には瞬間移動を遂げた宝物のように、この映画の記憶がどっしりと残っている。どんなに時代が変わろうとも、この不思議だけは唯一信じられるもの。そう思いませんか?

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2010年8月29日 (日)

ファンタスティック Mr. Fox

何を今更と言われるかもしれないが、飛行機のなかでウェス・アンダーソン監督作"Fantastic Mr.Fox"を観た。

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原作は「夢のチョコレート・工場」や「ジャイアント・ピーチ」などの児童文学でもおなじみ、ロアルド・ダール。これが奇才ウェス・アンダーソンの手にかかると、『ザ・ロイヤル・テネンバウムス』『ライフ・アクアティック』の文脈にピタリとはまるストップモーション・アニメへと様変わりするのだから本当に驚かされる。

父さんギツネの声を演じるのはジョージ・クルーニー。母さんギツネにはメリル・ストリープ。冒頭、押し入った農場で罠にかかり天井からは鉄柵がガチャン。閉じこめられたふたりは焦るどころか、ここぞというタイミングで人生の方向性を決定づける重要な会話を交わす。「わたし、赤ちゃんができたみたいなの」「そうか。。。」 それから2年後、ふたりの暮らしにはひとりの少年が加わっている。反抗期なのか、オリジナルすぎるのか、とにかく扱いに困る奇妙な少年。それが彼らのひとり息子、Fox.Jrだった。

あまりにゴーイング・マイ・ウェイな父親と、彼の注意を惹きたい息子、それに付かず離れずの母親。家庭の事情で一時的に面倒観ることになった親戚の子供。周囲の奇妙な仲間たち。いつしか近隣する3軒の農場との大戦争が勃発し、彼らは一致団結して事に当たろうとするのだが。。。

ほらね、やっぱりいつものアンダーソン節。アンダーソンと彼のコラボレーターのノア・バウムバック手がける脚本は、すべてのキャラクターが彼らの過去作品からせり出してきたかのよう。この造形といい、動きの軽妙さといい、会話の練り込まれかたといい、一瞬一瞬にお家芸が尽くされて思わず溜息と笑いがこぼれる。

『ライフ・アクアティック』ではヘンリー・セリックの担当したストップ・モーション・アニメ部分に“ジャガー・シャーク”という伝説の生き物が登場する。対して本作では“オオカミ”がその役目を担っている。また、ウェス・アンダーソン作品ではときどき手を肩から天高くサッと挙げる合図が見られるのだが、このとき交わされるのもそれと全く同じものだった。このさりげない合図が、遠く離れてたかと思われたふたつの異なる存在を瞬時にして結びつけるのだ。

間違ってもアンダーソンの作品は宗教臭くない。が、それらは小さな小さなコミュニティにおける人間と神の対話のようにも感じられ、ちょっとだけ敬虔な気持ちに包まれた。

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