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2012/12/09

【レビュー】ルビー・スパークス

『ルビー・スパークス』は人間の理想と現実とが持つアンビバンレントな関係性を寓話的、神話的に詰め込んだファンタジーと言えるだろう。新進気鋭にして2作目以降がなかなか書けない若手作家が、あるとき自分の夢に現れた理想の女性を想うあまり、それを文字としてタイプライターで打ち込むと、そこに打ち込んだ内容と全く同じ特性を備えた理想の彼女が立っている・・・という塩梅。

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これは表面的に観ると、ある種の古より受け継がれてきた伝統工芸的なストーリーラインをなぞるものとしてジャンル分けできるのだろうし、はたまたこの映画の主演が実生活でも恋人どうしのポール・ダノ&ゾーイ・カザンによるものだと聞くと、何やら映画俳優らの私生活を覗き込むようで、興味半分、下世話感半分で妙に後ろめたい気持ちを抱え込んでしまう自分がいる。

しかしながら事態はより複雑だ。この物語は彼氏(ポール・ダノ)側が書き手として「理想の彼女」を創造し、またこの映画の脚本自体を彼女(ゾーイ・カザン)本人が執筆しているという点で、もうひとひねりのスウィッチ構造が働いていると言えよう。つまりはこの映画の神様は誰かと問われたときに、それが男性か女性かでは随分と印象が異なってくると思うのだ。この映画では結局、ポール・ダノが映画というステージ上で右往左往するのをゾーイ・カザンが手のひらでコロコロ転がしている図式が成立する。そういう虚構性の中に遊べる創造的な余裕こそが実生活のダノ&カザンの関係性ということか。

ちなみに『ルビー・スパークス』を見ながら『500日のサマー』を思い出す人も多いだろう。こちらは究極的に男性目線の映画だった。『ルビー・スパークス』が理想の彼女像を紡ぎ出すのに対して、『500日のサマー』はまずどこからともなく理想の彼女が舞い降り、去っていき、究極的に彼女が何者だったのかという恋愛の謎を、すべてが過ぎ去った時点から後付けで述懐するという構成。

『ルビー』は創造、『サマー』は述懐。と書けば両者は対立するもののようにも聞こえるが、実は述懐も身に起こったことをそのまま物語ることではなく、そこにはある種の創造性のフィルターが生じていることを忘れてはならない。実際にはサマーも列記とした人間性を持ち合わせたキャラクターであるにもかかわらず、主人公(語り手)の主観フィルター=創造性が働くことによってあえて宇宙人的な女の子として、ガラガラとシャッターを下ろすかのように、何を考えているのか理解できない人物として描かれているわけだ。

話がサマーに偏ってきた。これはあくまでルビーのレビューなのだ。ええと・・・、ルビー、ルビー。このように『ルビー・スパークス』を観ていると、彼氏と彼女、あるいは妻と夫といった愛情関係における理想と現実について視点が集中しがちだ。

けれど、冷静に考えてみて僕らはこの映画の客席に座るにあたって、何よりもあの『リトル・ミス・サンシャイン』のジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス監督が6年ぶりに世に送り出す新作映画という点にこそ期待に胸をふくらませていたはず。僕らの“サンシャイン”となり得たあの少女アビゲイル・ブレスリンもすっかり大きくなり、映画女優としてもどんどん成長して貫禄が備わってきた。しかしながら、ことデイトン&ファリスふたりに関して言えば、6年間も次なる作品が生み出せずにいたことになる。

映画の主人公はここにもいた。初監督作があれほど世界で絶賛されたが故に、次の一歩を踏み出すことに慎重になり過ぎてしまった創り手がここにも存在した。ポール・ダノ演じる若手作家は彼らの分身とも言えるはずだ。

そして『ルビー・スパークス』はデイトン&ヴァレリーの映画監督としての決意表明としても受け取れる。つまり彼らは、自分の創作欲を満たすかのような作品づくりは決してしないのである。創造が先であれ、書くのが先であれ、何か魅力的な題材やキャラクターはあちら側からやってきてくれる。決して赤い靴を履きつぶすまで踊り狂うような真似はしない。主人公とヒロインとが最後に交わす穏やかな邂逅こそが、彼らの映画作りの原点といえるのかもしれない。これまでも、これからも。

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