2012年4月 3日 (火)

【レビュー】ヘルプ~心がつなぐストーリー~

アメリカ公開時、正直、誰も期待していなかったし、キャスティングや監督名などに秀でた“売り”があるわけでもなかった。しかしその評価は観客の間でジワジワと口コミを広げ、果てにはアカデミー賞作品賞候補として名を連ねるまでに至った。いわゆる毎年必ず一本は現れるサプライズ・ヒット枠(思いがけないヒットにより下剋上的に伸し上がってきた映画)である。批評家筋の間で評価された作品に比べ、こういう作品は勢いが止まらなくなるので決して侮れない。

Help
時はアメリカで公民権運動の熱が徐々に高まりだす60年代。舞台は南部ミシシッピ州のジャクソンという町。黒人への差別が根強く残るこの地で、作家志望の主人公のスキーターは幼いころより黒人メイド=ヘルプの手によって育てられた。南部の家々も様々だ。虐げる者もいれば、家族同等に接する者もいる。そして彼女の育った家は比較的、使用人の黒人への配慮のある家柄のはずだった。だが大学を卒業して実家へ戻った彼女は、実の娘以上に優しく育ててくれた老メイドがいつの間にか暇を言い渡されていたことを知る。

アメリカは価値や意識の大きな転換期を迎えようとしている。それなのにこの街には未だにその兆しが見えない。家族も、友人も、ご近所も。

そんな中、早々と結婚して家庭に入る友人らを尻目に、いまだ婚期の訪れないスキーターは新聞社でコラム執筆の仕事を手にする。今週の題材は何にしよう。そうだ、友人が雇っている物知りのヘルプに生活の知恵を伝授してもらおう。だが、いつしかスキーターの関心ごとは「生活の知恵」などではなく、この街の住人として逃れようのない人種問題へと向かい始める。テレビからはまたも人種間の衝突のニュース。それにキング牧師の姿。彼女はこの激動の時代を生きるヘルプたちに興味をいだく。彼らは常日頃、なにを考え、どんな生活を送っているのか。白人の雇い主に対してどんな想いをいだいているのか。それらの打ち明け話を匿名の証言集として本にまとめるべく周囲の黒人たちに声をかけはじめる。

初めは「そんなことすればどんな痛い目を見るか分からない」と固辞する彼ら。しかし日常の中で膨れ上がる理不尽な出来事やわだかまりに耐えかね、徐々に心の内をさらけ出しはじめる。そこから湧き出る抱腹絶倒の逸話から深刻な人権侵害に至るまでのエピソードの数々。そのムーブメントは次第に輪を広げ、秘密のインタビュー場所には「わたしのストーリーも聞いて!」と長蛇の列が並び始める。

その成果はいつしか「Help」と名付けられた一冊の本となって、全米にセンセーションを巻き起こす一滴のしずくとなり・・・。

The20help
2時間半もの長丁場に渡る作品だが、この語り口に飲みこまれると一気に感情を持っていかれる。これはストーリーの地力なのか、それとも役者陣や演出による表現力の賜物なのか。これまで我々が接してきた“人権問題”やら“公民権運動”といったテーマに身を寄せた作品には圧倒的なまでにシビアかつ骨太な語り口が不可欠だった。が、この映画はそれらとはまるで違う。時代の“傍観者”から“行動者”となったスキーターの姿を通して、観客を南部の大らかさへと誘い、深呼吸のように清々しい感触でやさしく包み込んでくれる。

それに、いくら白人女優エマ・ストーンを主演に据えているからといって、よくある“白人の視点から見た虐げられた黒人像”という上から目線には陥らない。これまで星の数ほど作られてきたそれらの啓発物語を踏襲せぬよう作り手が細心の注意を払い、この極上の雰囲気と友情、それに『ブライズメイズ』顔負けのお下品な爆笑シーンまでもがふんだんに詰め込まれている。

一方、スキーターらが起こすムーブメントは一つ間違えば危険な代償を伴いかねないものである。いつ過激派に嗅ぎつけられ生命の危険にさらされるとも分からない。しかしこれらの現実的な脅威はあくまで状況説明の範疇にとどめ、この物語は“語りのファンタジー”とも言えるエクスキューズによって、登場人物がそれぞれ伸びやかに個性を発揮し、マイナスさえもプラスに変えながら、メロディを奏でるように互いの存在感を縦横無尽に絡ませていく。

Thehelpcast

冒頭に私は「キャスティングに秀でた点があるわけでもない」と書いたが、しかしそれゆえにメインとなる5人(エマ・ストーン、ヴィオラ・デイヴィス、オクタヴィア・スペンサー、ブライス・ダラス・ハワード、ジェシカ・チャステイン)の女性たちは、たとえ反目する役柄どうしであっても、その衝突が見ていて苦痛ではない見事なニュアンスを形作っていく。そのアンサンブルの結果として、本作の語り部でもあるヴィオラ・デイヴィスはアカデミー賞にて主演女優賞に候補入りし、オクタヴィア・スペンサーは助演女優賞オスカーを獲得するなど、ふたりして映画界の絶賛を勝ち取ったが、その背後には先の5人絡みのガッチリとしたスクラムがあったことも併せて指摘しておきたい。

ちなみに主人公スキーター役のエマ・ストーンといえば、今夏公開の『アメイジング・スパイダーマン』でヒロインのグウェン・ステイシー役を演じる注目株。またこのスキーターの前に立ちはだかる強敵ビリーを演じるブライス・ダラス・ハワードの小悪なビッチぶりときたら、絶妙に小気味よく観客のイライラ度を募らせてくれるわけだが、そういうふたりが運命的対決を余儀なくされるのも納得、実はサム・ライミ版の『スパイダーマン3』ではこのダラス・ハワードこそがグウェン・ステイシー役を演じており(ライミ版でグウェンは脇役だった)、この映画は期せずして新旧スパイダー・ガールがまさかの60年代南部にて攻防を繰り広げる構図を生みだしている。この応酬に終始笑みが止まらなかった。

『ヘルプ』はあくまで過去の物語かもしれないが、しかしその実、映画界の新たな未来と可能性(こと女優陣に関して)とがふんだんに詰まった、大切な贈り物のような作品だ。

この記事が参考になりましたら、クリックのほどお願い致します。

TOP】【レビュー】【TWITTER

|

2012年3月31日 (土)

【レビュー 】スーパー・チューズデー~正義を売った日~

やはり映画監督とは、俳優業以上に自分の遺伝子に組み込まれたアイデンティティをさらけ出さねばならない職業なのだろう。ジョージ・クルーニーといえば、先日もアカデミー賞を終えたタイミングを見計らって(誰にも迷惑をかけない時期になってから)深刻な暴力の連鎖が広がるスーダンに飛び、帰国後には米上院委員会でその現状をレポートし、オバマ大統領と面会して人命支援を訴え、果てにはニューヨークのスーダン大使館前で警察の警告を無視して抗議活動を繰り広げ、一時身柄を拘束されたりもした。そうやって彼を突き動かす信念の影には常に父親ニックの存在が見え隠れする。ジャーナリストとして真実の究明に力を注いできた父。そんな背中を見つめながら芸能一家で成長し、売れてない時代は友人宅のクローゼットで寝泊まりしながら好機を伺い続けてきた息子ジョージ。いまハリウッドを代表する映画人となった彼は、スーダン大使館前で拘束される際に「今、この場所で父と行動をともにできていることを誇りに思う」と語っている。
Idesofmarchtheatricalstill7
そんな彼の創る映画は、一作前に興行的に失敗した『かけひきは恋のはじまり』(これはこれで素晴らしく小粋な作品だと思う。詳しくは拙レビューを)などよりも硬派な作品の方がよく似合う。今回扱う題材は大統領予備選の内幕。映画製作の決断に至る際、ジョージの体内ではさぞやニックから受け継いだジャーナリズム魂がウズウズとうずいたことだろう。
大統領選の勝敗の行方はスーパーチューズデーで決まると言われる。それはアメリカの多くの州で投票が行われる3月初旬の火曜日のこと。クルーニーはこの“運命の日”をめぐって展開する一連の政治劇(オリジナルはボー・ウィリモンによる戯曲)を映画化するにあたり、そのタイトルを"The Ides of March"(原題)と定めた。これは古代ローマにおける3月15日を指す。ブルータスの裏切りによってジュリアス・シーザーが殺害された日である。
Idesofmarch 
クルーニーは本作の監督を手掛けるのみならず、大統領候補役として持ち前のカリスマ性を映画の軸に据える。だが決して主人公ではない。メインを託されるのはライアン・ゴズリング(『Drive ドライヴ』『ブルー・バレンタイン』)演じる若き選挙コンサルタントだ。理想に燃え、自分が仕える候補者の可能性も信じてやまない。「この国を変えられるのは彼しかいない」と候補者をたたえる時の彼の眼はフェアリーテイルを信じる子どものようにキラキラしている。マイクチェックも万全。原稿も完璧。背の低い候補者のために台座を設ける手配もした。相手候補のネガティブ・キャンペーン用の素材集めにも余念がない。体力は限界だが、余力は十分に残っている。この仕事は彼にとって天職に思えた。彼の若さから来る原動力は候補者の輝きを際立たせ、このまま順調にいけば彼は数カ月後、ホワイトハウスの仕事にさえありつけるかもしれなかった。
The_ides_of_march_web
だが、運命はそう簡単には事を運ばせない。相手陣営からの巧みな誘惑(ポール・ジアマッティの狡猾極まりない存在感!)、信頼に足る上司(フィリップ・シーモア・ホフマン)とのボタンの掛け違い、選挙事務所でインターンとして働く女学生との関係。信じていた理想はいとも簡単に破壊され、彼はどんどん人間性を変貌させていく。この選挙戦は彼にとってあまりに多くのものを失わせた。取り返しのつかないもの。まだ取り返しのきくもの。キャリア。人生。生きがい。スクリーンはひとつの実験場となる。すべての価値を天秤にかけた彼は果たして最後に何を選びとるのか―?
Theidesofmarchseymourhoffman
「この国をより良いものにしたい」という言葉の響きは確かに美しい。だが、仮にあなたが選挙陣営のスタッフならば、その言葉が発せられた時点でそこに伴うメリットとデメリットを瞬時に、かつ合理的に弾き出す必要があるのだろう。それが「よりよきもの」の代償だ。それに見合う選挙資金とスタッフ数、リスク、根回し、交換条件。それらの調整仕事に忙殺され、疲れきり、いつしか限界を越え、瞳孔が開きっぱなし、演説者のように機関銃のように喋り倒す、甘言の限りで相手を翻弄する、報道記者を自分の味方につけるといった生存本能を駆使していまだその戦場に立ち残っていたとき、彼は真の意味での敏腕と認められるのだろう。しかし全てを見てしまった彼の信念にはもはやスパンコールで彩られた「より良きもの」の実態など存在しない。
The_ides_of_march_2011_pic06_paul_g
もちろんこれは映画に過ぎない。だが、それゆえクルーニー監督のもとに集まった芸達者たちがあらゆる仕掛け合う一挙手一投足に“政治業界の妖怪たち”とも呼びたくなるほどの異様さを詰め込んで繰り出してくる。とりわけ共演シーンはほとんどないシーモア・ホフマンとポール・ジアマッティの存在感ときたら、もう完全に逝ってしまっている。そんな憑かれたような演技を観ているだけで楽しい。そして恐ろしい。んな銃弾の飛び交う戦場にも増して、ここには現実社会に繋がるリアルさと一語に凝縮された緊張高さがある。
ジョージ・クルーニーはまたしてもやってくれた。父から受け継いだジャーナリズム魂にさらに輪をかけ、現実からは見えてこない隠れた真実を、映画という装置を使って果敢に告発しているかのようである。

この記事が参考になりましたら、クリックのほどお願い致します。

TOP】【レビュー】【TWITTER

|

2012年3月25日 (日)

【レビュー】トロール・ハンター

さあ、今から試写を始めようという矢先、場内入口からカランコロンという金音が聴こえ、いかにも山男風の、大きなリュックを抱えた男性が姿を現し、前口上を述べはじめた。明らかに先ほど受付付近で映画宣伝マンとして立ちまわっていたはずの彼は、試写場に集まったマスコミ関係者に対し「自分は日本トロール保安機関の代表です」と言って憚らなかった。この手のジャンル映画のお約束と言えばそれまでだが、観客は観客で、「こういう趣向、嫌いじゃないよ」といった風で彼の口上に逐一顔をほころばせた。

どうやら『トロール・ハンター』はここ日本でも、そうやって人から人へと伝染し、皆をひそかに巻き込んでいく、そんな映画のようだった。

Trollhunter
日本ではレイトショー扱い。ともすればDVDスルーにさえなり得たかもしれない『トロール・ハンター』だが、実はヨーロッパでは「ノルウェーから届いた怪作」として大絶賛で迎えられている。昨今、映画界の新たな才能が低予算の域から世界のメインステージへと這い上がってくるには2種類のパターンが見受けられる。ひとつはドキュメンタリー風にリアルさを追究したホラー(『パラノーマル・アクティビティ』『ブレアウィッチ・プロジェクト』『REC』など)、あるいはもうひとつはVFXアーティストが自ら緻密な特殊映像を築き上げて合成し、その予算規模からは想像もつかないスペクタクルを体感できるというパターン(『モンスターズ』『第9地区』『アイアン・スカイ』など)である。

そしてこの『トロール・ハンター』にはその両方が織りなされている。

Hunter 学生撮影隊が特ダネを追って密漁者風の男に接近する。最初はノリといい、映像の感触といい、『ブレアウィッチ・プロジェクト』を彷彿とさせる進行状況が続く。少しずつディテールを見せていき、決して全体像は明かさない。その動線と視界をコントロールすることによって観客を徐々にこの“状況”へと突き落としていくわけである。しかし男が森の奥深くで「トロール!!!」と絶叫した瞬間から脳天をスパーンと叩きつけられたように急展開が巻き起こる。この地点より本作は『ブレアウィッチ』なサナギ状態から『ゴジラ』級のモンスター・ムービーへと急転直下の孵化を遂げるのである。

そもそもトロールとは妖精なのだそうだ。お馴染みのムーミンもこのトロールに属する。ただしこの映画で出現するトロールは巨大で、奇怪で、獰猛で、なぜか宗教的な帰属性も嗅ぎ分けて襲いかかってくる。ノルウェー政府はすでに早くからこの存在を把握し、生息域を観察し、その枠を飛び出して人間に危害を与える恐れのあるトロールを「トロール・ハンター」の資格を持つ元特殊部隊出身者に始末させているという。この流れに、まったく違う特ダネを期待した大学生チームが合流してしまったことから、この目撃体験モキュメンタリーは想いもよらない映像記録を紡いでいくことになるわけだ。

Trollhunter2

このハンディカム映像という一点の穴から、ノルウェー奥深くの生態系、果てには政府レベルの極秘事項までも覗かせる手腕。そしてどんな窮地でもユニークさを忘れない作り手のサービス精神。そんなところに人々は心を緩ませ、この映画の虜になるのだろう。

果たしてこの映画の魅力は怪獣モノの本家本元たる日本でも通用するのか?その判断は劇場における目撃者ひとりひとりに委ねることにして、今はただ、日本トロール保安機関の今後のご活躍を祈るばかりだ。

この記事が参考になりましたら、クリックのほどお願い致します。

TOP】【レビュー】【TWITTER

|

2012年3月24日 (土)

【レビュー】テイク・シェルター

あくまで映画だ。フィクションだ。しかしながら、この映画を観終わったあと、これまでに感じたことのないリアルな感触に身が引き裂かれそうになっている自分に気づいた。僕らはこの主人公の男を知っている。いつ災害がやってくるのか怖くてたまらないという彼。いざというとき家族を守れるよう自宅に頑丈なシェルターをこしらえようとする彼。まるで現代の「ノアの箱舟」だ。その不安がパラノイアかもしれないことも自覚している。それでも彼は突き進み、シェルターのために仕事を失い、家族さえも失いかける。それでは元も子もないと人は笑うかもしれない。

しかし震災後に生きる我々にとっては彼の心理が痛いほど理解できる部分もある。言うまでもなく映画製作とは企画から完成までに相当な時間を擁するもの。ようやく暗いトンネルを抜けた時には全く違う世界が広がっていることもある。どうやら僕らは、この映画の作り手が提示しようとした風景の、さらなる向こう側に暮らす住人となってしまったようだ。まずこの部分にこそ、我々日本人にしか視覚化しえない特殊な観点が浮き彫りになってくる。

Takeshelter02

続きを読む "【レビュー】テイク・シェルター"

|

2012年3月16日 (金)

【レビュー】マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙

時は現代、ひとりの老婆が日用品店でミルクを買い求める。彼女はミルクのボトルを抱えて自宅に戻り、朝食の準備。長年連れ添った最愛の夫と「ミルクが高くなったわ。価格をずっと注視しているの」などという会話を交わしながら食卓を共にする。外からは警備員とスタッフが言いあう声が聴こえてくる。「またデイムが一人で外出を?」「ちゃんと見てなきゃダメじゃないの!」

いやいや、観るべき映画の入口を間違えたわけではない。これは紛れもない『マーガレット・サッチャー』の冒頭のひとコマなのだ。この物語は彼女の伝記である。しかしかなり特殊だ。なにしろ語り手が一貫した視点でもってその人生を俯瞰したものではなく、軸となるのはサッチャー自身の主観。それも老齢ゆえアルツハイマーにも侵された彼女の心象に映し出される数々の思い出が、それが妄想なのか真実なのかの境目も解き明かさぬまま、気まぐれなパッチワークのごとく紡がれていく。

Ironlady
本作は確かに英国現代史を描くという方向性を保持しながらも、「サッチャー政権とは何だったのか?」という命題に示唆に富んだ解答を与えるような評論家然とした行為はいっさい起こそうとしない。緊縮財政、労組スト、IRA、フォークランド紛争といった難題を抱えながら結果的に多くを切り捨て「小さな政府」を目指した彼女のリーダーシップは数多くの批判にもさらされてきた。来日した主演のメリル・ストリープもサッチャーのことを「最も愛され、そして憎まれもした人物」と語る。つまりはそのような賛否両論ある人物にいかなる映画らしい視点を与え、語るべきストーリーを見出すか。そこに作り手たちの挑戦があったようだ。そうやってつかまえたものこそ、冒頭に切り出した“老いから照射された光”というマジックを加味した全く新しい語り口なのだろう。

ゆえに、もしもサッチャーの人生に何らかの政治的、社会的、フェミニズム的な検証に値するような硬派な側面を求める観客にとっては、この映画がぬるま湯のように感じられる節も少なくないかもしれない。

また、サッチャーが決意を胸に政治の階段を駆け上っていく前半の高揚に比べ、ワンマンな手法でどんどん内閣で求心力を失っていく屈辱的な後半では少々描くべく段階を省略し過ぎてしまっていたように思えた。なぜあのように孤立してしまったのか。そのとき彼女の内面には何が過っていたのか。そこの流れが知りたいのに、映画は必ずしも線的な答えを与えてはくれない。それは他ならぬ(映画の中における)現在のサッチャーの心象模様がそれを許さないからだ。すべての手綱を引くのはあくまで現在の彼女。語られなかった部分はそのまま“今なお記憶の中で直視しえなかった現実”ということになるのだろう。正直言って、この映画に線的なストーリーを求めるのはお門違いと言えそうだ。

しかしながら、と立ち止まってみる。ひとりの人間の生きた証しを刻むといった意味では、メリル・ストリープはまさにこの役を突き抜けるがごとく見事に生き抜いている。それこそ本作でアカデミー賞主演女優賞を獲得したのも納得の域。同賞を得るには“役を生きる”だけでは足らない。“役を生き抜く”ことが求められる。その意味では今回の候補者の中でその言葉に値する存在感を残したのは彼女のみ。それも圧倒的な差をつけての当確だった。

中盤のバイタリティあふれる姿と、後半の御歳90にもなろうかという女史を表現するために特殊メイクで皮膚を覆ったストリープ。外見には落差はあれど、その立ち姿には生命と気力の連続性が認められる。声のトーンや目の輝き、遠くを見つめるその目線―あらゆる瞬間にサッチャーが宿っている。

驚くべきことにそこには確かな線的な流れが存在する。先ほど「ストーリーの線が薄い」と述べたのに対し、この一個のキャラクターの身体に息づく流れはかくも強靭だった。あたかも作り手たちがそれを狙ってピンポイントで仕掛けてきたかのよう。その試みが「主演女優賞オスカーは獲れても、作品賞や脚本賞では候補入りさえできなかったと」いう事実に直結している。

ちなみに本作はもう1部門、メーキャップ部門でオスカーを受賞している。主演女優とメーキャップ。この受賞結果を持ってして初めて、本作がいったいどういった成分で体を成し、そしてどのような分野で評価された映画なのか、正確に把握できるというものだ。

この記事が参考になりましたら、クリックのほどお願い致します。

TOP】【レビュー】【TWITTER

|

2012年3月10日 (土)

【レビュー】シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム

どの業界でも同じことだ。“新しさ”が底をつくと、人々は「古典のリミックス」で一点突破を図ろうとする。コナン・ドイル原作の「シャーロック・ホームズ」が映画、英国ドラマ、米国ドラマと立て続けに変移を遂げているのも、そういう流れが多分にあるのだろう。企画にあたり「何を語るのか?」に力が注がれて時代は過ぎ去り、いつしか「どう見せるか?」が中核を成している。

つまりはワーナー・ブラザーズ版『シャーロック・ホームズ』シリーズの見せ方は、ロバート・ダウニー・Jr.という予測不能なヒーロー性をもってして、ガイ・リッチーのストップモーションを駆使した映像演出でミステリーとサスペンスとアクションを融合させていくというもの―

だなんて、小難しいこと考えてたら、「映画を楽しむ」というごく基本的な視点を忘れていた。ひとつ告白しておくと、筆者は2年前、このシリーズ前作に意表を突かれるあまり全くノレずに試写場を後にしたのだった。今回の続編もどうせ自分は発車バスに置いてけぼりを食らうのだろうと覚悟していた。ところがこの諦念が功を奏したのか、いざ蓋を開けてみると、これが非常に痛快に思え、ホームズとワトソンが対等に展開する丁々発止のやり取りに笑い、そして友情を超えた愛(?)に胸が締め付けられたりもした(『ハングオーバー』しかり、ワーナー作品はどうしてこんなにブロマンス系が多いのだろう)。

Sherlock
いや、それはさておくとして、今回は冒頭から緊張感に満ちた仕上がりとなっている。その導火線となるのはやはりこの男、ホームズ最大の敵モリアーティ教授だ。この重要な役を演じるのが我々映画ファンにはあまり馴染みのない英国俳優、ジャレッド・ハリス。彼はかの『ハリー・ポッター』シリーズの初代ダンブルドア校長役リチャード・ハリスの息子にして、シェイクスピア・カンパニーなどでかなり鍛え上げられた、映画界にとってみれば20年物の蔵出しモルト・ウィスキーのごとき怪しき芳香を放つ人物である。

そもそもこのモリアーティとは、何でも名解決に導くホームズにとっての正反対の電極、あるいは互いにその存在意義を打ち消すために生を受けた合せ鏡のような存在である。そしてホームズの得意技がガイ・リッチー版におけるひとつの伝家の宝刀ともなった“瞬間思考シミュレーション”であるとするなら、モリアーティも思考回路のどこかで同じシミュレーション回路を働かせている節がある。それらの先読み合戦がいつしか思考上のチェス盤での真剣勝負にまで昇り詰めるとき、我々は運命のクライマックス“ライヘンバッハ滝”に至るまでの道のりを“シャドウゲーム”と名付けることになるのだろう。

2011_sherlock_holmes
ちなみに、すっかりおなじみとなったこのホームズの脳内シミュレーション映像だが、ガイ・リッチーによると「ファントムカメラ」というロケットの着火状況の確認などのために用いられる高速度カメラを駆使して撮られているのだとか。通常のカメラが1秒間に24コマ、25コマの静止画(その静止画の連続が動画を成す。それが映画の仕組みである)を捉えるところが、このファントムでは1秒間に最大700コマを捉えることが可能となる。それゆえあれほどのスローモーションであっても緻密で、飛び散る汗や筋肉のゆがみさえも逃さない細部の際立った映像表現が可能となるわけである。

本作のもう一人の登場人物としてホームズ好きにとって待望のマイクロフト・ホームズが顔を出す。名探偵の良き(?)兄にして、政府の重要任務を担った人物として歴史の背後で飄々と暗躍する彼。今回もホームズを助けているのか、余計に混乱させているのか、よく分からない風体で存在感を残す。英国では俳優、コメディアン、番組司会者としても知られるスティーヴン・フライがこの役を絶妙に演じている。

また、もうひとりの重要人物としてスウェーデン版『ドラゴン・タトゥーの女』のタイトルロールで全世界を驚嘆させたノオミ・ラパスが登場。初のハリウッド映画進出とのことだが、本作に対する評価の声はあまり聴こえてはこないものの、少なくとも記念すべき一歩を踏み出した姿を拝むことができる。

で、この多彩な人々が顔を合わせる『シャドウゲーム』に意外なほど魅了された筆者は、その後、あらためて前作を見直してみることにした。

まったく…面白いじゃないか!私は映画の見方が分からぬ馬鹿者である。ただ単に、新感覚のホームズとやらに慣れるまでに丸々2年間もの時間を要し、ようやく皆に追いつくことができた。もしかすると私がそうやって今頃「面白い」と口にしている瞬間、皆はもっと遠い地点にまで辿りつき、『シャドウゲーム』に関しては全く別の感想をいだくこともあるのかもしれない。それはそれ。これはこれ。

とにもかくにも、ワーナーはすでにシリーズ第3弾の製作を見越して脚本家を雇い済みという。果たして次回作ではどのようなキャラクターが行き交い、いかなる名推理が炸裂するのか。はたまたガイ・リッチーの映像趣向はどのように発展を遂げるのか。いまごろ『ホームズ』の楽しみ方を覚えた私は楽しみでならない。

この記事が参考になりましたら、クリックのほどお願い致します。

TOP】【レビュー】【TWITTER

|

2012年3月 4日 (日)

【レビュー】世界最古の洞窟壁画3D 忘れられた夢の記憶

ドイツの巨匠がふたり、同時期に、それぞれ初となる3Dドキュメンタリーのフィールドへと飛び込んだ。その現場から聴こえてくるエピソードがそれぞれの個性を物語っていて面白い。まずヴィム・ヴェンダース監督は『pina』を製作するにあたって繰り返し『アバター』を観て、その技術と映像との相性について徹底的に検証したという。一方、『世界最古の洞窟壁画3D』を監督したドイツの奇才ヴェルナー・ヘルツォークは、『アバター』を観たときの感想について「なんだか嫌になって3Dメガネをはずしてしまったよ」と打ち明ける。彼は他の多くの映画関係者とは根本的に異なり、『アバター』に映画の新たな可能性など微塵も見出さなかったようだ。恐らくこの先自分が3D映画を製作することになるなどとは夢にも思っていなかっただろう。

そんな彼に「これは3Dで表現する以外に他に方法が見当たらない」と思わしめた被写体があった。それがこれ。人類の至宝「ショーヴェ洞窟壁画」だ。

Cavehorses
洞窟壁画として有名なものに“ラスコー”がある。あれが1万7千年前のもの。ショーヴェは3万2千年前だというから、ざっと2倍近い古さということになる。この時点ですでに途方に暮れてしまった人は、ひとことで「ずいぶん昔のこと」として脳内処理いただきたい。

とにもかくにも、あのヘルツォークが3Dカメラでショーヴェ洞窟を撮った。通常、一般人の入窟は許可されていない。カメラが入るのも今回が初めてのことだ。ドキュメンタリーゆえ「社会科見学のようなものだろう」と人は言うかもしれない。しかし巨匠はこれまで手掛けてきた狂気じみた、あるいは変態じみた怪作フィクション群とはまるで違う畏敬に満ちた眼差しでもって、僕ら観客を神秘と静寂と陶酔の世界へといざなってくれる。

ふと、この洞窟の入り口が、今さっきくぐり抜けたばかりの劇場の入口のように思える。映画館と洞窟、そして暗闇。原始も現代も変わらない密閉空間が、3万年もの時間差を一瞬にして埋め、我々を古代人と同じ連続性のもとに立たせているのだ。

そこで目の当たりにする意匠の数々。映像の動きに従って自らも意識の歩を進めるうちに自分がひとつ大きな勘違いをしていたことに気づかされた。僕は当初、ヘルツォークがこの洞窟内のゴツゴツした岩肌を活写するために3Dカメラを持ち出したのだとばかり思っていたが、それは違った。このショーヴェ洞窟では岩肌どころか、この肝心の壁画自体が凹凸の激しい岩肌に描かれている。そして驚きべきことに古代人たちはその凹凸を、この絵画の巧みな“演出”として利用しているのだ。ある部分では動物の躍動感あふれる筋肉の隆起を表し、ある部分では交錯した二枚岩が前方と後方の“遠近”を形作る。また他の動物絵画では脚が意図的に8本分描かれていたりもし、これはつまり漫画の手法と同じく、脚が高速で運動を繰り返す様子を表現したものと推測できる。こうした芸術性を前にすると、ヘルツォークが3Dカメラを選択せざるを得なかった理由が自ずと共有でき、自分が何かしら古代の儀式へとどっぷりと浸かってしまったような感覚さえ湧きおこってくる。

Herzog ヘルツォークは本作の水先案内人であり、語り部役も担っている(日本語吹き替え版はオダギリジョーが担当)。残念ながらこのツアーをもってしても、ショーヴェの洞窟壁画が何のために描かれたものなのか、古代人がこの場を何に利用していたのか、はっきりとは解き明かすことはできない。しかし何らかの儀式性を兼ね備えていたにしろ、記録的な意味合いがあったにせよ、古代人の“ストーリー”がここに封じ込められていたことには疑いがない。多くの映画鑑賞において我々は作品にストーリーラインを求めるが、この『洞窟壁画3D』を形成するのは、3万年前に一度語られたストーリーのかけらに手探りで触れようとする精神性である。それはまさに、いわば古代人の遺した“失われたフィルム”が今まさに暗闇に投影されているかのような状況と言える。

ふとヘルツォークが「誰かに見られているような感覚」という言葉を口にする。それは彼のみならず、ツアーの参加者(研究者や撮影クルーなど)の誰もが抱いていた想いだったという。さらに言えば、僕自身も客席に居ながらにして同じ思いにさらされていた。“誰か”の正体とは何者だろうか。洞窟内に留まる古代人の魂か、あるいはもっと高みにある神格化された存在か。いずれにせよ、我々がスクリーンに臨み、そして何者かこちらをじっと見つめているという感覚が互いに交錯した時、そのスクリーンを鏡面的媒介とした視線のシャワーは、何かしら途方もなく巨大なものとそれに対峙する矮小な自己との相対関係をまざまざと実感させるものとなる。

また「ヘルツォークらしいなあ」と感じたのは、最後に「編集後記」なるものが付与されるところだ。ここで彼はピリリと辛い文明論を展開する。観客によっては「ここは蛇足」と感じるかもしれないが、長年のファンにとってはまさに画竜点睛の域。そこでは先の“鏡面性”が趣向を変えた形で照射されていて唸らされる。ヘルツォークはやっぱりこうでなきゃ。

映画が終わり劇場を後にするとき、観客はあたかも自分が深い深い眠りから覚めたような、あるいは今まさに母の胎内から産まれ落ちた赤子になったような気分にさらされるはずだ。誰かが「それは洞窟による浄化作用かもしれません」と教えてくれた。古代人たちもこうやって暗闇の中、たいまつの火に揺らぐ(まるで実際に動いているかのような)洞窟壁画を観賞し、おなじように赤子に回帰したような心持ちで洞窟を後にしたのだろうか。そのような光景が3万年前に・・・。そんなことを考えていたら、日常の些細な悩みなんて軽く吹っ飛んでいた。「メメント・モリ(死を想え)」と人は言う。いや、その前に3万2千年前に想いを馳せよ。そこから見えてくるもの、そして自分自身の姿が必ずあるはずなのだ。

この記事が参考になりましたら、クリックのほどお願い致します。

TOP】【レビュー】【TWITTER

|

2012年1月24日 (火)

【レビュー】ヒューゴの不思議な発明

人生いつまで経っても冒険の連続である。なにしろ御歳70になろうかという巨匠マーティン・スコセッシが児童ファンタジーに、それも3Dの領域に踏み込もうというのだ。かつては『タクシー・ドライバー』や『レイジング・ブル』といった作品群を擁しアメリカン・ニュー・シネマの切り込み隊長を担っていた彼が新たに挑む、この伝統的な語り口と映像技術との融合絵巻。その心のどこかで「せめて孫と語らえるような作品をひとつ」との想いが過ったかどうかは知らないが(なにしろ彼の映画はギャング物ばかりなので)、とにかく巨匠の心境としてはこの試み自体が69歳のロスト・ヴァージニティ。あるいは覚悟を決めたジェットコースター・ライドであったことは想像に難くない。

Hugo
だが、我々はこの映画が光を見出すその前、まだ暗闇の中にオープニング・クレジットを映し出す段において、すでにスコセッシの周到な思惑が起動していることに気づくだろう。というのも、そこで背後に響き渡るサウンドは紛れもなく列車の到着を告げるものであり、言うまでもなくこの音色は映画の歴史、それも映画がこの世に産声を上げた瞬間を象徴するもの(1895年、リュミエール兄弟がパリ・グランカフェで行った世界最初の上映会で上映されたうちの一本は「列車の到着」と呼ばれるものだった)。そう、この『ヒューゴの不思議な発明』は大胆なフィクションを加味しながらも、その実、物語自体が映画史と密接な関りを持っているのである。

舞台は1930年代、パリ。みなしごの少年ヒューゴは、数多くの出逢いと別れの集約地―駅にて構内時計のネジまわしをしながら暮らしている。

いつも一人ぼっちの彼には使命があった。亡き父が残した一体の壊れたカラクリ人形を修理し、そこに隠された秘密を探ることだ。そのためには必要な部品を揃えねばならない。ヒューゴは駅構内にある玩具店でおもちゃの部品を失敬しては、カラクリ人形の復活にあてていた。しかしある日、その犯行は店主の知るところとなる。大目玉をくらったヒューゴは腕を掴まれ、ポケットの中にあった大事なノートさえ取りあげられる始末。でもそこに記されたカラクリ人形のスケッチに店主の表情が豹変した。明らかにショックを受け、狼狽している様子だ。この店主は何者なのか?そして彼とカラクリ人形とを結ぶ秘密とは―?

Hugo02
はたしてこのストーリーがどのように映画の起源と結びついていくのか。それを伝えるのはこのレビューの役目ではない。記すべきは、マーティン・スコセッシ監督がかねてより世界中に散逸した数多くの歴史的フィルムを収拾し、専門機関による永久保存=アーカイブ化を推進してきた人物であるということだ。

本作もまた、クライマックスに向けてその志をスコセッシと華麗に重ね合わせていく。共鳴の輪は拡大する。きっとこの映画に触れた誰もが初期映画に興味を持つことだろう。そしてそれら貴重なフィルムの多くが今もなお歴史に埋もれて散逸されたままであることの“真の意味”に近づくことができるだろう。

“フィルム”とはつまり、そこに刻まれた“思い出”であり“記憶”である。

そしてスコセッシが精力的に取り組み続け、なおかつ本作のテーマとして暗に忍ばせるのは「失われた思い出を回復させ、蘇らせること」に他ならない。

これはある意味、少年がカラクリ人形を修理・回復し、そこに父との記憶を見出そうとする行為とシンクロニシティを持つものなのかもしれない。

またここまでが既に原作「ユゴーの不思議な発明」に織り込み済みのエッセンスだとするならば、そこにリュミエールの「列車の到着」からジョルジュ・メリエスの「月世界旅行」といった実際の歴史的フィルム映像を巻き込み、それらイマジネーションの源流をめぐる冒険を3Dビジュアルで描くと言う趣向は、まさに一本の映画の内部における映画史の昔と今の結実。スコセッシだからこそ成し得た恐れを知らぬ大胆極まりない行為と言えそうだ。

この記事が参考になりましたら、クリックのほどお願い致します。

TOP】【レビュー】【TWITTER

|

2012年1月13日 (金)

【レビュー】SHAME -シェイム-

かねてより「全編セックスだらけ!」と謳われている本作。通常ならば映画製作者たちは自作が厳しいレイティングを付与されることを嫌うのだが、本作はアメリカ公開の際にも問答無用で「NC-17(17歳以下は観賞不可)」を食らい、それに異議申し立てを行う者はいなかった。

その理由は本編開始直後に判明する。セックス描写どころか、主演のマイケル・ファスベンダーは隠すべき物も隠さず、なんのためらいもなく生まれ持ったものをブラブラさせながらカメラの前を横切っていく(日本公開版ではモザイクあり)。観客としては「あっぱれ!」と声かけたくなるほどの挑発的な場面だが、これはそのままスティーヴ・マクイーン監督(かの伝説的俳優とは全くの別人。彼はターナー賞受賞のアーティストでもある)の決意表明のようにも受け取れる。なるほど、我々はこの主人公ブランドンの生態を、人と人との限界境界線を越えてじかに垣間見ているのだ。そこでは「あえて隠す」ことのほうが作為的で不自然な行為なのかもしれない。

Shame
ブランドンはセックス依存症だという。バーで声をかけた行きずりの女性を抱いたり、コールガールを呼んだり、そして会社で我慢できなくなればトイレに駆け込んで自慰を決め込む。依存しているからには何か原因がありそうだが、この映画ではその核心部分が何一つ明かされない。いや、当の本人にとっても原因が欠落し行為だけが惰性的に繰り返されるからこその“依存症”なのだろう。

我々に与えられる手掛かりは原因や結果ではなく、そこに横たわる過程だ。

ナレーションだとか、狂言回しだとか、言葉としての説明もほとんど存在しない。我々はただ彼の生活を見つめることによって、そこにおぼろげながら追い詰められた精神的状況を浮き彫りにしていく。それは神秘的な輝きを放つニューヨークで、彼の心の奥底の恥部がゆっくりと観客だけにさらけ出されていく、そんな幻想的なフライトのようでさえある。

Shamemovie
と、そこに突如、キャリー・マリガン演じる妹が登場。その瞬間から本作は微かに不調和性が加味される。彼らは兄妹ゆえにお互いの過去を知っている。ふたりの間にはどうやら共通の記憶があるようなのだが、それについても具体的に詳述されることはない。ただ、彼女の投入によって観客は、永遠に続くかに思われていたブランドンの快楽性に一気にタイムリミットが内包されたのを察知する。限界がくると何かが弾け飛びそうな予感。なおも具体的なことはなにも語られないが、あらかじめ信管が抜き取られた爆発物とでも呼びたくなる作品の身体性が、観客の心理ををその内部に没入させてやまない。

我々はどこを走行中なのか、どこへ向こうのか。すべてはブランドンが通勤に使う地下鉄のように、ずっと進行形の状態なのだ。男と女が視線を絡ませ、薬指のリングを示しながらも構わず、手を触れずして危なげな駆け引きを続ける。そんなつかの間のアバンチュール。この街の闇はどんな汚物も隠してしまうほど深い。光は全てをさらけ出すほど眩い。人々はその境界線に佇むことで、生きながら死に、死にながら生きる。その繰り返し。

英国出身のスティーヴ・マクイーン監督がなぜニューヨークを舞台に選んだのか、その理由も気になるところだ。世界の金融不安の中枢ともなったこの地。今なお格差感是正を求めて多くが野宿し占拠するこの街。ブランドンの中毒に意識をそらされた我々は、そこに他にも数多くの"SHAME"が集約・象徴されていることを薄々と感じとるかもしれない。

この記事が参考になりましたら、クリックのほどお願い致します。

TOP】【レビュー】【TWITTER

|

2011年11月21日 (月)

【レビュー】Drive ドライヴ

「カー・アクション映画が受賞?」

今年のカンヌで本作が監督賞を獲ったとき、誰もが耳を疑った。この由緒正しき祭典では芸術性や作家性の高い映画こそ受賞にふさわしきものと思われていたからだ。

しかし映画をひと目見ればわかる。本作は確かにカーアクションを要所にフィーチャーしながらも、それ以上に確かな作家性と芸術性が同居し、眼前に迫り出してくる。"Drive"というタイトルは単に“走行する”というだけでなく、あたかも“人生”や“宿命”、“避けては通れない道”、"Survive"、“仁義”などという多義性を飲み込んで、主人公の人生から抽出される一つの観念のように思えてくる。

Driveposter11

「5分だ。5分間は何があろうと待ってる。だがそのリミットを過ぎれば、俺はもう待たないぜ」

それが決めゼリフ。

ライアン・ゴズリング演じる主人公は映画製作のカー・スタントマンとして日銭を稼ぐ傍ら、強盗の車両担当として逃走の手助けを担っている。

冒頭から緊張感がみなぎる。彼は5分間で仕事を済ませてきた覆面のふたりを後部座席に乗せ、警察無線を使って相手の動きを察知しながら、鮮やかなドライビング・テクニックでスルスルと出し抜いていく。

その不可思議な眼光を放つ目線がなにを見つめているのか分からない。ほとんど言葉を口にしない。トレードマークはサソリの刺繍を宿したジャンパー。ドライビング・グローブ。口元には楊枝。

そんな彼の人生を一変させたのは、アパートの同じ階に暮らす母子との出逢いだった。運命は常にエレベーターの開閉と共に訪れる。夫でもなく、恋人でもなく、主人公はいつしかこの母子の守護天使となることを決意する。そして彼らの平穏を脅かそうとする者が現れた時、彼は静かな激情を胸に宿し、無表情のまま、怒涛の抗戦に打って出ようとしていた―

Drive2ryangosling
デンマーク出身のニコラス・ウィンディング・レフン監督が織りなす時間と空間、それに淡い光源の使い方に魅了される。このところ北欧出身監督の世界進出が目覚ましいが、その多くが見慣れた風景を別物
へと変えてしまう才能に満ちているのではないかと思う。レフン監督が描くこの物語も、独特のフィルターをかぶせワン・ツー・スリーのカウントで別世界へと塗り替えられてしまったかのよう。舞台はLAなのに、まるでこれがヨーロッパや北欧ですよ、と言われてもそのまま頷いてしまうような雰囲気に満ちている。

そしてエレベーターや廊下、スーパーの商品棚といったお決まりの閉所にてスローモーションでたっぷりと間合いを取りながら描写されるシークエンスの数々も印象を刻む。なにしろこの映画ではライアン・ゴズリングがずっとポーカーフェイスを決め込んでいる。そこに感情の発露は読みとれない。でもそれゆえ、充分に時間をかけて観客の目線を惹きつけるこれらスローモーションの動きにこそ、実は注目すべき感情の流れがギュッと凝縮されているということを我々は逆説的に気づかされるのだ。

主人公の体型がマッチョでないのも良い。もともとこの役にはヒュー・ジャックマンも候補に挙がっていたのだとか。彼は確かに名優ではあるが、本作はどこか得体のしれない宇宙人的ゴズリングだったからこそ、役柄の内部により多くの未知数を培養することに成功しているのだろう。

Drive02
と油断してると、中盤から堰を切ったように血糊があふれだすのにも圧倒される。ちょっとした覚悟が必要だ。バイオレンスなんてものじゃない。さらに輪をかけたハイパー・バイオレンス。炸裂する鮮血は時にピンク色に見えたりも。なるほど本作のクレジットが黒字にピンクなのにはそういう暗喩もあったのか。

いずれにしてもこの『ドライヴ』は助走・疾走の過程を抜けて、最後はどの方向性においても容赦・加減なく加速し、突き抜けていく。この映画のボルテージの変化がそのまま(表向きはポーカーフェイスを決め込む)主人公の感情の遍歴でもあったことは言うまでもない。そして彼の、恐らく生涯にいちどあるかないかの感情の爆発する様を助手席でしかと見つめ併走することこそ、観客に与えられた大切な役割なのだ。

これほど車を大挙させ物語を紡いでみせたレフン監督。たいそう車オタクなのだろうと思いきや、実はまったく興味がないどころか、免許証さえ持ってないという(試験に8回も落ちたんだとか)。しかしながらこの映画に限って言えば、だからこそ『ワイルド・スピード』とは180度違う映画になり得たのだろうと思う。

常人からは見えない角度や視点、方法で物事を見つめることが作家性なのだとしたら、やはりこの『Drive』は正真正銘、素晴らしい作家主義に貫かれた映画なのだ。カンヌの監督賞に選出されたのも今なら大いに頷ける。

この記事が参考になりましたら、クリックのほどお願い致します。

TOP】【レビュー】【TWITTER

|

その他のカテゴリー

2011年10月公開作品 | 2011年11月公開作品 | 2011年12月公開作品 | 2012年02月公開作品 | 2012年03月公開作品 | 2012年04月公開作品 | 2012年05月公開作品 | 2012年06月公開作品 | 2012年07月公開作品 | 2012年08月公開作品 | 2012年09月公開作品 | 50音順タイトル | awards | BOOKS | memo | NEWS | TOP | trailer | WORDS | 【Hero】 | 【my French Film Festival 2011】 | 【おいしい映画】 | 【お年寄りが元気!】 | 【アート×映画】 | 【クラシック音楽はお好き?】 | 【ドキュメンタリー万歳】 | 【メモ】英国王のスピーチ | 【劇場未公開作】 | 【劇薬!】 | 【地域:TOKYO発】 | 【地域:アジア】 | 【地域:中東発】 | 【地域:仏国発】 | 【地域:北欧発】 | 【地域:南米発】 | 【地域:英国発】 | 【学園という名の社会】 | 【宇宙で逢いましょう】 | 【家族でがんばる!】 | 【文芸】 | 【新感覚アクション】 | 【映画×スポーツ】 | 【映画×偉人】 | 【生きるためのファンタジー】 | 【監督:クリント・イーストウッド】 | 【監督:ジョー・ライト】 | 【監督:ミシェル・ゴンドリー】 | 【紛争】 | 【素晴らしき、黙示録の世界】 | 【脚本:ピーター・モーガン】 | 【音楽×映画】 | アウシュヴィッツ訪問 | イベント、取材 | クエンティン・タランティーノ | ジョゼフ・ゴードン=レヴィット | スティーヴン・キング | スティーヴン・スピルバーグ | 一言レビュー | 今年のベスト(2006) | 今年のベスト(2007) | 今年のベスト(2008) | 今年のベスト(2009) | 今年のベスト(2010) | 今年のベスト(2011) | 全米BOX OFFICE | 再起復活ベン・アフレック | 旅の記録 | 映画業界