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2013/02/17

【レビュー】世界にひとつのプレイブック

名匠デヴィッド・O・ラッセルの映画にいつも付き物なのは、ひとつのテーマをめぐる狂騒性と、そして役者どうしの予想もつかない化学変化だ。どんな大俳優であってもラッセル作に引きずり込まれたなら最後、ワークショップを重ねた劇団員のように他の出演者とがっちりスクラムを組まされ、ゴールに向けてのひとつの要素として身を捧げて仕事をこなす。そうやって立ち現れるチームプレーこそが、ラッセル作品の魅力なのだ。その意味で言うと、彼の映画はスポーツに似ているのかもしれない。

今回の『世界にひとつのプレイブック』でもその様子は伝わってくる。おそらく現場は、逆転に向けてヨッシャー!サー!イコー!と気合いを入れるアメフト部員のごとく、最高のテンションを落とさずして撮影が進められていったのだろう。

本作は精神疾患の男女が親交を温め合うという、一歩間違うと道徳的なテーマ性が前に出てしまいがちな題材を、驚くべきナチュラルな語り口でもって調理する。ふたつのパーソナリティの激しくも愛おしいぶつかり合いが、深刻さを撥ね除け、実に軽快に浮上していくのだ。

とはいえ、主役のふたりは奇妙なキャラクターだ。発汗性が良くなるからという理由でランニング時に真っ黒なビニル袋をかぶり、本の結末が気に入らないと深夜に近所迷惑になるほどわめき散らしたりしてしまうブラッドリー・クーパーと、旦那に死なれたことがきっかけで職場の男たちと見境なくベッドをともにしたという爆発女ジェニファー・ローレンス。

ふたりの掛け合いはひとつひとつの台詞がはたして相手の胸にどう突き刺さっているのか先読みを許さず、観ていて非常にスリリング。丁々発止という言葉でも表現しきれない、むしろ“噛み合なさ”が互いの率直すぎる物言いを許容し、逆走的に居心地の良さを醸成していく関係性だ。彼らがラストに向けてダンスを磨いていく過程は、想いが言葉ではなくアクションによって発露され昇華しいくひとつの見せ場として躍動感に富んでいる。

本作では『ザ・ファイター』に引き続き、家族の肖像が際立って描かれる。ボクシングをメインに据えた前作に対して、本作ではダンスとアメフトというふたつのスポーツが組み込まれるが、ひとつ興味深いのは、本作でアメフトの試合シーンが映し出されることは(多分一度も)ないことだ。

そのかわり本作では家族4人を核として、そこに多様な外部要素が組み込まれていくことによって、逐一そのフォーメーションを変え、彼ら自身がプレイブック(作戦図)のコマでもあるかのようにコロコロと有機的に表情を変えてクライマックスへとなだれ込んでいく。なにしろあのロバート・デ・ニーロでさえも、ここでは一選手として集団演技に身を捧げているのだ。

この映画では随所にアメフトの話題を振り撒きながらも、結果的にカメラは試合を映すかのようにしてあのダイナミックな家族の情景を写し取っていた。人生のゲームフィールドはここにあると言わんばかりに。

蛇足ながら、『ハッカビーズ』の頃にラッセル監督にインタビューする機会に恵まれたことがあった。彼は全ての質問に対してとても快活に答えてくれたが、途中でいきなり立ち上がってトイレに行ってしまうなど、本来ならばあり得ない予測不可能な行動を取る人でもあった(そのときに私は作品のプロデューサーとふたりだけで取り残されてしまい、相手も気まずそうだった)けれど、再び戻ってきた彼は、「ロスに来たら事務所に連絡しなよ」と電話番号を書き記してくれたり、またも気さくな一面を見せて場の空気を掴み、私の心をも鷲掴みにしていった。結果的に、その45分ほどの取材時間でさえも、何か台風にでも見舞われたような、ひとつのスポーツの試合がダイナミックに展開したかのようなめまぐるしさに満ちていたのだ。

そしておそらくこれがラッセルの魅力であり、その性格は作品のテイストにもよく現れている。ここ数年、彼の作品がアカデミー賞の常連となった理由には、あたかもスポーツ観戦を観ているかのようなその集団的な勢いこそがハリウッドの連中を魅了しているからであり、スタジオシステムが到達しえなかった新味だからなのだ。『世界にひとつのプレイブック』を観る際にはストーリーと共に、その演技部分にも注目してご覧頂きたい。

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