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2013/04/03

【レビュー】ザ・マスター

ポール・トーマス・アンダーソンの映画にヒーローは登場しない。誰もが自分の人生にもがき、格闘し、挙げ句の果てに人間の姿をした怪物へと変貌していく・・・いや、もしかすると“怪物”には至らないのかもしれない。だからこそ僕らはそこに息づくどの人間の生き様にも、あくまで実生活に根ざした人間的尺度のうちに、深く圧倒されてしまうのだろう。

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面白いことに、今作『ザ・マスター』に対して多くの人が「混乱した」と語っている。それは決してネガティブな意味ではなく、賞賛の意味を込めての感想のようだ。

「アンダーソンの新作は、宗教団体サイエントロジーの物語」という噂が流れたのはもう何年前のことだろうか。果たして彼は、トム・クルーズやジョン・トラヴォルタさえも従えるこの伝説的な教祖を、否定して描くのか、それとも慈愛に満ちた救世主として描くのか。完成までにはかなりの困難を要した。資金面の救世主が現れるまでに相当な月日を要した。ようやく完成した本作のふたを開けてみると、確かに宗教的な話ではありながら、一方で荘厳なる驚きが確かな混乱を引き起こした。教祖と信者。従属と支配。集団と個。救済と拒絶。そこに描かれているテーマは誰の人生にも起こりうる実に普遍的なものだった。 しかもその話の流れと来たら、何ら物語的なカタルシスを持つものではない。ふたつの巨大な魂のかたまりが、時に交錯したり距離を近づけたりしながら、最終的には並走を続けそのままフェイドアウトしてしまうという、どこまでいってもふたつの“焦点”なるものに辿り着くことのない位置関係、そして状況こそを提示している。

それゆえ観客の多くが「混乱した」と語るのも無理はない。確かに僕も大いに混乱した。この映画をどう受け止めていいのかわからなかった。でも一方で、誰もが心のどこかで、この映画を見事に着地させているのだ。たとえ「混乱した」という予定不調和的な着地スタイルであったとしても。

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おそらく同じ所業を他の無名監督が行ったならこんな反応は得られなかったろう。そこには恐らく僕らが、ポール・トーマス・アンダーソンという若き巨匠とともにこの混沌とした90年代、00年代を越えて、10年代を生きていることに理由がある。多くの映画ファンは90年代、00年代がそうであったように、10年代も彼と共に生きたいと願っている。彼はそれほどまでに観客による信託を受けた監督。それゆえ「混乱」など許容範囲のうちなのだ。いや、この混沌とした時代にわかりやすい物語など要らない。もっと正直に。もっと混乱させてほしい。それが観客の切実な願いなのではないか。

そしてこれと同じく、アンビバレントな精神を抱えるのが本作の主人公であるふたりだ。自分のテリトリーに異物を抱え込むというスリル。スリルを抱えることによってこそ安定がもたらされ、それはいつしか快楽へと変わっていく。

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『ザ・マスター』はそのタイトルと反転するかのように、でっぷりと太った中年教祖ではなく、むしろ彼に仕えたり仕えなかったりする太平洋戦争帰りの帰還兵ホアキン・フェニックスこそが主人公だ。 彼は戦争中に何らかのトラウマを抱えた様子でもないが、常時アルコールに浸り、暴発しそうなほどの性欲を持て余し、ちゃぶ台をひっくり返す行為が付随サービスでもあるかのように自らの獰猛性を制御する術を見失っている。 それでいて結婚を約束した若い娘に対して連絡を絶つという人間的に不成熟ながらも、意外と共感できなくもない側面さえ併せ持つ。

きっと僕らの「混乱」の要因の8割は、彼の予定不調和ぶりに起因するのだろう。彼のことを無茶苦茶な人間だと思いながらも、一方で、その願望と行動とがどんどん乖離していく人間性を、なぜだか僕らは自分の事のように共感できてしまう。この衝撃によって混乱はことのほか増幅していく。


なおかつアンダーソンは教祖と獰猛な信徒の関係性をラブストーリーのごとく描く(同性愛ではなく、もっと広い人間的な愛の物語という意味で)。ホアキンが調合する危険なアルコールの力も少しは手伝ったのだろう。教祖は彼という異端分子を手元に置きたいと願っている。どうにかして彼を精神的混乱から救い出したいと思っている。ホアキンはホアキンで、目の前にアットホームな集団生活をチラ付かされ、もしかすると婚約して手に入れていた可能性も1ミリほどはあったかもしれない「家族」という幻想に心揺れる。

両者は本能的に相思相愛な仲だ。けれどそうであるがゆえに、最終的に融合することはなく、並走する運命を選んでしまう。ホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンというふたりの怪優らも、結局のところ相手を凌駕し自分色に染めようと激しい演技対決の火花を散らしながらも、最終的にはどちらも微塵も染まることは無く、唯一無二のカラーを寸分たりとも濁すことなく自分の道を歩んでいく。

我々はこの物語にまたもや混乱する。それはこれまで観てきたどのストーリーラインにも集約されないふたりの道程のリアリティを描いているからだ。アンダーソンはこの脚本を少しずつ少しずつ温めていったという。彼は決してプロット先行型ではない。結論など全く想定しないままに、ふたつの対立軸をチェスの駒のように動かして物語を動かしていった。

思えば『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』でも狂信的な牧師と怪物的な主人公の対決は描かれていた。もしかするとふたつの自我の物語は、あのときから既に起動していたのかもしれない。 けれど『ザ・マスター』において両者は肉体的な対決すらも、生命の奪い合いも行わない。そうして作品自体がむしろ、獰猛さと緩慢さと独特のぬめりを帯びた爬虫類的な生き物となり、その特殊な生態を充分にさらけ出したあと、劇的な終幕を迎えぬまま不意に長い舌をヒュルリと延ばし、身を翻して暗闇へとフェイドアウトしていってしまう。その饗宴の中、カメラだけは常に荘厳なまでに冷静な視線を保っているのも特徴的だ

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混乱の原因はまだある。物語が進むにつれ、どちらが“マスター”で、どちらが“信者”なのかわからなくなるところだ。互いは互いを強く必要としている。誰かに従属することとはつまり、相手に支配されることでもあり、また同時にその関係性のうちに相手を組み込むことによって逆に支配することでもある。そうやって互いに求め合う作用によって関係性はより強化されていく。そして最終的にここに描かれる男たちは、その関係性を断つという最も強靭な選択肢を採ることになる。そうすることで“あり得たかもしれない未来”を、より重圧の増した心のクサビとして延々と引きずっていくことになると知りながらも。

これはどこにでもある物語で、人は日々、小さな混乱と大きな混乱とに身をさらしながら生きている。気づけばまたあの波が、そして大海を掻き分け進みゆく船がもたらす水のしぶきが60ミリフィルムで撮られた映像を轟音と共に埋め尽くす。人類の史上、幾度も繰り返されてきた混乱と、従属と、支配。その残骸を掻き分けて船が進む。

未来をぼんやりと見つめるかのように、砂の女しか抱けなかったホアキンはうつろな表情を浮かべている。これは一度観た夢なのか、それとも単なる回想なのか。砂場は彼にとっての心のサンクチュアリ。そこから一歩踏み出して、外の世界に触れれば良いじゃないかと歯がゆさが募る。けれど、これはポール・トーマス・アンダーソンが奏でる物語。踏み出すことは彼の担う役目ではない。むしろ観客である我々に委ねられた役目。だからこそ僕らは、不意に突きつけられたホアキン・フェニックスのうつろな目線に、やはり、またしても、どうしようもなく混乱するのだった。

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