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2013/07/23

【レビュー】風立ちぬ

去る6月25日、夜9時を過ぎた頃合いから『風立ちぬ』の第一回目の劇場マスコミ試写が幕を開けた。いちばん後方部に腰を下ろした僕からは、実に様々な人たちが緊張しながらその開始を待ち構えている様子がうかがえた。年配の男性の中には「戦争映画か、辛いなあ」と漏らす人もいた。あまりに事前の情報が少なかったゆえに、これからスクリーンで何が起こるのか的確にイメージすることが出来なかったのだ。結果、僕はそこに巻き起こっていく創造性の一部始終に舌を巻いた。過去の宮崎アニメとは大きく異なる。現実世界に根を下ろした等身大の物語がそこには壮大に広がっていたーーー。というわけで、すでに公開がはじまっている『風立ちぬ』のレビューです。

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■宮崎駿の作品で何がいちばん好きかと問われれば、いつも『紅の豚』と答えてきた。その理由に「男としてのダンディズムが・・・」などと言うつもりは毛頭ない。映画の中ではほとんど描かれないが、あの祝祭的なムードを支える裏側に強靭な反戦の姿勢があることに、歳を重ねる度に沸々として気づき、痺れたのだ。あれほど腕に覚えのある飛行機乗りが集まった空賊である。きっと多くのパイロットはポルコ・ロッソと同じく、もともと空軍かそれに類する機関で才能を発揮していた者たちに違いない。キナ臭い時代ゆえ、本来なら真っ先に軍に召し抱えられ爆撃に参加すべき男達。しかし彼らはそれを阻み、どういうわけか地中海くんだりに集って、好き勝手に運動会を繰り広げている。そして「空を飛ぶこと」だけを純粋に楽しもうと生きている。そこに子供に舞い戻ったかのようなハチャメチャなノリを支える、がむしゃらなまでの一本気、あるいは真剣に生を謳歌しようとする息づかいを感じたのだった。

■『風立ちぬ』は『紅の豚』と作風が異なるが、同じ「下り行く時代における飛翔」という一本気な想いが結実した作品だった。周囲がどうこうではなく、自分である、という叫びが結実していた。

■映画の冒頭、少年・堀越二郎はその成長期における早い段階で自分の限界に気づいている。彼は目が悪い。だからポルコ・ロッソのような飛行機乗りにはなれない。しかし彼のヒーローはイタリアにいた。飛行機製作者のカプローニ。彼と二郎は夢の中でしか出逢うことはないが、そこで彼らは(夢の中ゆえ)日本語で対話し、本作の中で唯一のファンタジー的描写となる草原で、その試作の飛行機を発進させる。そこでは常に、風が立っている。

■二郎はいつしか飛行機製作の立役者として、どんどん暗雲立ちこめてくる世情の中で零戦の開発へと携わることとなる。彼が若さの情熱を注いで打ち込んだ零戦開発に関して、最後に触れる一言がある。「とうとう一機も帰ってこなかった」。それは戦後に生きる我々にとって、映画が始まる前から分かり切っていたことだ。もしも時代が良ければ、二郎は零戦などでなく豪華な旅客機づくりにて大きな貢献を果たしていたかもしれない。だが一方で、戦争に真向かう時代だったからこそこれほど資金豊富に研究開発を続けられたという面もあるだろう。ひとつ言えるのは、これは誰かを断罪するような映画ではないということだ。かといって間接的に兵器づくりへと関わることとなった二郎のエクスキューズを挟みこむことも一切ない。そこには人が力の限り“自分”を叫び、情熱の向くままに信念を貫く姿があるだけだ。

■もちろんその考えは立場が変われば軍国主義へと開花したっておかしくはない。つい先日、宮崎駿の文章に「もう少し早く生まれていたら自分の性格からして愛国青年になっていたかもしれない」という趣旨のものを見つけた。二郎にしても、宮崎駿にしても「そうならなかったこと」に幸福がある。

■庵野秀明の声は、その遠心力によっていったん観客の心を遠くへ引き離す作用を持っている。理系的、といえばあまりにステロタイプだろうか。心になにを描いているのかよく分からない。近眼的。口にする一言がすごく変わっている。天才とはこのようなところがあるのかもしれない。けれどここで声に”分かりやすさ”を伴わないからこそ観客の心には警戒心が働き、この主人公が何を考えているのか、とつぶさに推し量ろうとしてしまう。彼のことを知りたいと思う。いったん遠くへ弾き飛ばされた我々は、結局その引力に引き寄せられて、回帰する途上でより強くその精神性へと同調し引き込まれてしまう。何よりも我々観客がアニメーション映画において「あるべき声」と思っているものを気持ちよく裏切っているところが良い。

■そしてこの映画は関東大震災という、街全体が悪魔に飲み込まれたかのような惨事の様子が描かれる。日本の様相が戦前の空気に染まっていく過程もまた盛り込まれる。時代も最悪なら、そこで急転直下で巻き起こる愛の行方も悲哀に満ちている。また二郎が志す零戦開発も何をもって成功と呼ぶべきなのか、判然としない。けれどこの何の寄る辺もない中で、各キャラクターたちは飛行機がプロペラをひとつ、またひとつと回転を重ねて動力を増していくように、キートンの無声映画を彷彿とするかのようなとてつもない身体の運動(アクション)を重ねて自分の信念を確立させていく。自分だけの”寄る辺”を具現化させていく。

■開発に夢中になるあまり病の妻をおざなりにして良いのかと批判もあるだろう。妻の最後の行動にも自分本位の美学を貫くあまり周囲を狼狽させかねない決意が貫かれている。だが、すでに前述したように、この映画は彼らのエクスキューズを挟むことは無い。すべてはあの無声映画を彷彿とする運動みたいに、ただそこにある身体や決断にのみスポットを当てるのである。そのとき、彼らはとても馴染みのある真っ直ぐな目をしていた。僕らはあの目を昔からよく知っている。

■思えばあの紅の豚だって同じまっすぐな目を、同じ横顔をしていた。ナウシカだって、シータにパズー、サツキとメイの姉妹だって、我々が幾度となく見て、心の中で触れてきたキャラクターたちには決断があり、それにただひたすら真向かっていく狂信的なまでの信念があった。いつもそこには、風が吹いていた。

■『風立ちぬ』は宮崎アニメで育ってきた全ての大人たちへのプレゼントなのだと思った。その贈り物の箱を開いたときに私たちはどんな懐かしい風を感じるのか。恐らく多くの人々は二郎のように社会の中で難しい決断に迫られる立場となっていることだろう。我々はこの映画から、宮崎アニメの主人公達が何も特殊なファンタジー空間に暮らす絵空事の住人などではなく、この日常生活の中でも整合性を持って息づく余地があることを知らされる。その意味で、我々は宮崎ワールドに飛び込んでいくのではなく、今回、あちら側からこちらへと降りてきてくれたとも言えるのかもしれない。

■そして、私たちは歩いていく。現世ではもう逢えない大切な人との再会を求めて。その時にどんな言葉を伝えるべきかを考えながら、道なき道を歩いていく。

■ひとつ分かるのは、この映画は最初の飛行シーンからして神との対話に満ちていたということだ。これを形を変えた信仰の物語とするのは言い過ぎだろうか。仏教でもキリスト教でもイスラムでもヒンズーでもない。これは夢の中で神と対話しながら求道し続ける孤独な巡礼者の物語だ。暗くて辛い時代、そこに必要なのは「いつも誰かと繋がっている」というような共有意識などではない。どれだけ孤独に、決意と使命を持って再会の草原に向けて歩いていけるか。そこに風は立っているか、なのだ。

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