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2015/05/16

ターナー、光に愛を求めて

 マイク・リーの作風は決してダイナミックに筋書きが展開していくタイプのものではない。むしろ会話や表情からキャラクターの内面が味わい深くにじみ出てくるところに趣きがある。そして決して全てを観客に伝えるのではなく、ある程度の手がかりを与えて、あとは委ねる。そうやって広がりゆく、あたかもワインを呑み干した後のような余韻が、何とも言えない贅沢な実りを提供してくれるのだ。

 そんな巨匠が、イギリスの国民的画家J.M.W.ターナー(1775〜1851)を描く。英国人なら誰もがこれはちょっとした事件だと感じたはず。

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 とはいえ映画界のターナーへの眼差しが熟成していく予兆は確かにあった。たとえば『007 スカイフォール』にはジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)と秘密兵器開発の担当者Q(ベン・ウィショー)がナショナル・ギャラリーにあるターナーの絵画「The Fighting Temeraire(解体のために最後の停泊地に曵かれていく戦艦テメレール号)」の前で語り合う場面がある。ボンドを老いゆく老兵になぞらえる示唆的なくだりだが、こういう微妙なニュアンスを伝えるところにさりげなくターナーを持ち出すあたりが、イギリス人の国民性をくすぐってやまなかったことだろう。

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 話を戻そう。ターナーについて描いた『ターナー、光に愛を求めて』はしかし、彼の生涯を体系的に知りたい人にとってはお勧めできるものではない。なぜなら彼の人生に影響を与えたと言われる母親の存在も描かれないし、彼が若くして画壇で認められる成功の瞬間も存在しない。涙を流しながら歯を食いしばって努力するシーンもなければ、絶望に打ち拉がれるシーンもなし。そもそもマイク・リーは日本人の大好きな「泣いた!号泣した」とのツイートを投稿しやすい映画などつくるはずもない。ではなにがあるのか。私はむしろこの映画は、ターナーの目を通してヴィクトリア期のイギリスを見つめたところに主眼があるのではと感じた。つまり、いつもの小市民を描くマイク・リー節はなんら変わらないということだ。

 ターナーを演じるのは、これまでにもマイク・リー作品に数多く出演してきたティモシー・スポール。『英国のスピーチ』やロンドンオリンピック閉会式で彼がウィンストン・チャーチルを演じた時、私は「まさかこんな大役を演じる日がこようとは」と驚きを隠せなかったが、今回のターナー役はその延長線上にあるサプライズだった。そもそも人はターナーと言えば若き日の自画像を思い浮かべるものだが、その精悍な印象とは180度違うターナー像。声はダミ声で、ゲホゲホと咳もひどい。英国式の優雅さの欠片もない。

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 もちろんここにはターナーが遺した数々の逸話も数多く盛り込まれているのだが、そういったシーンよりも私の心をとらえてやまなかったのは、彼がダミ声で「私のことを忘れないで〜♪」と愛の歌を奏でたり、死ぬ間際に医師に対して「私は存在しなくなってしまうのか?」と尋ねる場面だった。これほど後世に名を遺した彼が、自分の「存在」にこだわっていたなんて、と多少也とも胸がざわつかずにはいられなかった。

 ターナーの描いた絵画には悠久の時を刻むかのような大らかで柔らかな風景画も多い。本作では彼が旅をしながら、まるで絵画のような美しい風景の中を歩き回り、立ち止まり、その場でひたすら筆を走らせる場面も用意されている。(映画の中での)彼は、壮大な自然を前にすれば人間などほんのちっぽけな存在でしかないことに気付いていたのだろう。ちなみに、ターナーに関しては猛吹雪の中で船のマストに自らを縛り続け、そこから見える様子を命がけで目に焼き付けたという逸話も残っているが、これもまた壮絶な自然に身を置くことで何かしら「永遠」に触れようとしていたとも考えられる。

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 いずれにせよ、私は本作のターナーを観ながら、途中から胸が苦しくなって仕方なかった。彼が朴訥に生き、そして筆を走らせる様子がすべて「どうか私を覚えておいてほしい」という叫びや懇願のように思えて仕方がなかったから。彼だけではない。周囲の登場人物たちも皆がとびきり味わい深く描かれているのはいったいどんな魔法を使ったのか。息子(ターナー)のために懸命に絵の具をこね続ける父親。顔に皮膚病をわずらったマイペースな女中、時々ターナーに金をたかりにくる前妻、ロンドンの画壇を取り巻く魑魅魍魎たる絵師たち。金に糸目をつけず絵画を買い求めようとする富豪。基礎に基づかず偉そうに語るエセ評論家。そして晩年のターナーに生きる希望を与えた宿屋のオバさん−−−。

 観ているうちは何気ない時間でしかなかったが、過ぎ去ったものを思い返すと、なんだか全てが愛おしく見えてしまう。彼らは決して「永遠」を口にすることはないが、しかしその息づかい、表情、おかしみあふれる言動が味わい深ければ深いほど、この映画が過ぎゆく時間の中で奏でられた「私を忘れないで〜♪」の大合唱のように思えてやまなくなる。

 こんな見方をしてしまうのも、イギリスにおけるヴィクトリア期というものが猛スピードで変化を遂げた時代だったせいもあるのだろう。労働者が力を持ち始め、自分の頭で考え始めた時代。国内での戦争が無かった時代。1851年にはロンドンで第一回万国博覧会も開催される。イギリスが、そして世界が回り続けた時代。

 そして終盤にはターナーが写真文化と出会う場面も描かれる。写真館で技師に対して興味深そうに質問を投げかける彼。「いまに、スケッチブックの変わりにカメラを持参する時代がくるだようよ…」そう口にして、ぐふふと笑う。そうなりゃ俺の仕事なんて上がったりだよ、と言いたかったのか。この場面にもやはり、なにかターナーの「忘れないで」という思いがにじみ出ていたように感じる。

 私の知るところだとターナーの肖像写真は残されていない。となるとこの写真との邂逅もマイク・リーの創造に過ぎないのか。おそらく映画ファンならばこのシーンに、絵画から写真へ、そして映画へと受け継がれていくベクトルのようなものを感じるだろう。そもそもターナーは先に述べた「吹雪の中の船」や有名な「霧の中の蒸気機関車」のように、静止画の中に動きや空気すら描き出そうとした。その意味において「映画を先取りしていた」と見る向きも極めて多い。今現在、2Dが3Dになり、あるいは映画文化そのものがめまぐるしく変わりゆく中で、私には現代とヴィクトリア期とが重なり、そしてターナーとマイク・リーの姿がなぜか重なって見えた。

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 と同時に、我々がマイク・リーの映画に登場する小市民の会話、仕草、表情の全てを愛してやまない理由が分かった気がした。彼らの内面からは自ずと「忘れないで」の仄かな歌声がにじみ出し、その響きを受け止めた者たちの胸を苦しくさせるのだ。時代はめぐる。が、そういったものを切なく、愛おしいと思う気持ちは、おそらく200年経っても一向に変わることはないのかもしれない。

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