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2018/12/20

長崎へ 六日目〜国宝、世界遺産の大浦天主堂〜

結果的に私は、1865年3月17日に起こった「信徒発見」という出来事の流れを辿るかのように、浦上天主堂のある地域から大浦天主堂までの道のりを移動することとなった。

幕末のこの日、浦上の農民達十数名が神父の前に歩み出て、自分たちが禁教時代もキリシタンとしてずっと信仰を守り通してきたことを告白した。いわゆる潜伏期の終焉であり、この出来事は宗教上の奇跡としても語り継がれている。思えば、私が遠藤周作の「沈黙」を読んだとき、マーティン・スコセッシ監督による映画版を鑑賞した時に、ラストシーンの余韻に浸りながらふと胸をよぎったのも、200年の時を経てカトリック聖職者と日本の信者とが再会を果たすこの場面だった。言うなれば「信徒発見」は、あらゆる潜伏期の物語のエピローグと言えるのかもしれない。

当時の方々にとってみれば徒歩にて一日がかりの巡礼だったろうが、私は誠にもって恐縮ながら、路面電車でほんの20分程度の旅で事足りた。

大浦のあたりも幼少期から何度となく訪れたことのある場所だが、今の私の見てくれといえば地元の人とはかけ離れた観光客である。なにしろ首からカメラをかけ、背中には今時珍しいほどの大きなリュックを背負っている。あげくのはてに、時々、港のほうからボウッ!と聴こえてくる船の汽笛にビクッとしては、何かが起こったのではないかと付近をキョロキョロと見渡す始末である。

国宝。そして「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成要素のひとつ。

大浦天主堂は朝早い時間ながらすでに多くの人たちで賑わっていた。聖堂内は「静粛、脱帽、撮影禁止」が原則。しかしこれまで巡ってきた教会群と比べると、ちょっとガヤガヤ。奇跡を感じるにはもう少し心の落ち着きが欲しい感じだ。それでも、いやいや待てよ、と思う。誰もが私のように教会群を巡ってきたわけではないのだ。そもそもこの教会だって、幕末の1865年に完成した頃は「ふらんす寺」とも称され、町中の人々が見物にやってきたという。私を含め観光客が教会堂へと押し寄せる様は、当時の様子とさほど大差ないのかもしれない。

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そんな光景を、浦上の信者たちが目にしたというマリア像は、なおも変わらず柔らかな表情で見つめ続けているのである。

「信徒発見」の噂はすぐさま地元を駆け巡り、これまで潜伏しながら信仰を守り通してきたキリシタンたちがこの地へ巡礼にやってくるようになる。五島から、外海から、平戸から、天草から。たとえば、はるばる(今となっては無人島となった)野崎島からも代表団が大浦天主堂を訪れたそうだが、今回の海運と天候に恵まれた私の旅路に比べても、彼らの苦労は並大抵のものではなかったはずだ。その信仰心について私に語る資格や素養はないものの、しかし彼らが見つめた風景のいくつかを私も旅の途中で見つめてきたのかもしれないなと思うと、少し胸が締め付けられる思いがする。

大浦天主堂の案内所へと足を運んでいろいろと質問させていただいた。スタッフの方々は打てば響くように様々な知恵と情報を授けてくれる。さすが長崎随一の観光名所。さらに私が教会巡りをしながら最後にここ大浦天主堂にたどり着いたことを告げると、「それならば、せっかくですから」と資料館内の展示物をひととおり案内していただけることに。これが舌を巻くほど濃密な解説で、これまで辿ってきた点と線がこの地でうまくひとつに集約され、長崎の潜伏キリシタンをめぐる大きな「ストーリー」が浮かび上がっていくのようだった。

「失礼ですが、この教会の信者の方でいらっしゃいますか?」

と尋ねると、「いえいえ、仏教徒です」とのこと。なるほど、人に何かを伝えること、伝えたいと願うこと、そして自分自身をも高めていきたいとの思いは、どうやら宗教や信仰とは関係ないようだ。私も日々、映画を通じて様々な裏側を掘り起こし、様々な情報を伝える仕事を生業にしている身なので、この方のお仕事ぶりからなにか大切なプロフェッショナリズムを教えられたような気がした。こうして遠くとおくまでやってきたつもりが、最後は弧を描いて自分自身へと返っていくのは、なんとも不思議な話である。


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