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2018/12/19

長崎へ 五日目〜長崎で迎えた朝。はじめてのミサ体験〜

朝5時半に起きれるかどうか。それが問題だったはずだが、何の事はない。夜中、パソコン広げて原稿書きの仕事をしていたら、いつの間にか5時半を知らせるアンジェラスの鐘が鳴った。その時間から浦上天主堂には各方面から信者さんたちが歩いてやってこられる。朝のミサの始まりでである。私は5時50分の集合時間よりも10分も早くとロビー到着するという優等生ぶりを発揮。結局、その時間までに降りてこられた方は僕を含めて3人だった。

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カトリックのミサの式次第を知るのは初めての経験だったし、朝早い時間帯からこれほどの方々が祈りを捧げている姿は、信者さんにとっては日常であったとしても、僕のような無宗教な人間からすれば、日々何かを積み重ね続ける日常そのものが荘厳なものに思える。

この浦上地区は昔から多数のクリスチャンが暮らし、信仰を守り抜いてきた場所。と同時に、激しい迫害を受けてきた地域でもある。そして1865年、ここに暮らす代表者、十数人が歩いて大浦天主堂に赴き、当時としては珍しい西洋の建物をみやる多くの見物人の中から歩み出て、プティジャン神父に自分たちが禁教期も絶えず信仰を守り通してきたことを告げる。これが長崎のキリシタンの「潜伏期」の終わりとされ、西洋ではこの出来事が「信徒発見」という奇跡として強い衝撃を持って受け止められたそうだ。

ただ、この地はご存知の通り、信徒発見から80年ほどして、目と鼻の先で原爆が炸裂。壊滅的な状況へと陥ることに。『沈黙』で描かれたような司祭や潜伏キリシタンの苦悩も凄まじいものがあるが、この浦上地区が経てきた歴史もまた、何も宗教を持たない僕からすれば、神の存在を疑いたくなるほどのものに思えてならない。ただ、いまこうして平和な時代が訪れてひとつ言えるのは、この地区は度重なる悲劇を何度も乗り越えて、現在に至っているということだ。

外海町にある遠藤周作の「沈黙の碑」には「人間がこんなに哀しいのに、主よ、海はあまりに碧のです」という言葉が刻まれているが、この言葉に触れると、僕はいつもこの浦上地区のことを思い出してしまう。

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原爆によって元祖の浦上天主堂が破壊された後は、しばらくの間、小さな聖堂が建てられた状態だったそうだ。それから再建されることが決まり、いまのような形状の新天主堂が形を帯びていくこととなる。しかし質感や色彩は今とはまだだいぶかけ離れたものだったらしく、80年代にローマ法王が長崎を訪れるのにあわせて現在のような美しい完成型への総仕上げが行われた。ちなみに旧浦上天主堂を建てる際には、今村天主堂や田平天主堂を手がけた鉄川与助さんが携わり、新浦上天主堂の時には息子の与八郎さんがその任を担われたとのこと。

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ようやく朝の光が射し始め、浦上天主堂が本来の美しさを発揮し始めた。この地の記憶について考えながら、平和公園のあたりまで散歩してみる。やはりこの記念像には晴天がよく似合う。

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