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2019/09/22

幼少期の映画体験

今や映画館といえば「完全入れ替え制」が常識だが、僕の幼少期はまだ「途中入退場可能」。すでに半分くらい上映が始まっていても平然とそこから見始めることが多かった。それゆえ映画の終了を告げるのは、カタルシス満天のクライマックスではなく、あくまで「あ、ここのシーン、見たな。じゃ、帰ろう」という“気づき”だった。僕には映画というものが一つのコンテンツというよりは、切れ目なく延々とループし続けるメビウスの輪のように思えていた。

かくも途中から見始めるものだから、想像力にかかる負荷は甚だしいものがあった。主人公は誰で、どういう状況に陥っていて、このストーリーはどこから来て、どこへ向かおうとしているのか。これらをできるだけ短時間に演算処理して飲み込むのもまた、映画鑑賞の一つの習慣というか、醍醐味だった。かくも走り出した列車に後追いで飛び乗ることにかけて、我々の筋肉はアスリート並みだったのだ。

もうあんな体験、二度としたくないしできないだろう。でもなんだかとても懐かしい。タランティーノが『パルプ・フィクション』のような、ある意味、どこからでも鑑賞可能な映画を作り得たのも、ひとえに「途中入退場可能」の時代の発想があったからではないだろうか。じゃあ、クリストファー・ノーランの『メメント』は? 途中入場するとますます訳が分からなくなりそうだが、でも逆にこれは無限ループ映画のような気もする。究極のところでいうと、アンディ・ウォーホールが眠る男を6時間映し続けた『sleep』。もしも完全入れ替え制のシネコンでこの映画を見る機会があるとするなら、それは至福か、それとも拷問だろうか。

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