『時をかける少女』(2006)

2006年の初夏。とある試写室で誰かが「今年のアニメはどう?」って話題を持ち出していた。その年の夏はアニメの激戦区。ジブリが『ゲド戦記』を送り出し、ワーナーは『ブレイブストーリー』、そして角川は『時をかける少女』。アニメが苦手な僕はそのどれも見てはいなかったが、寝たフリをしながらその話に耳だけは傾けていた。頭の中ではとっくに「ゲドかブレイブでしょ。だって宣伝費が違うもん」と勝手な結論を思い描きながら。しかし3本とも鑑賞済みの彼らはその予想をことごとく裏切り、「やっぱり、『時かけ』で決まりでしょう!」という結論で合意したのだった。

季節は本格的な夏になり、とある喫茶店で僕は友人と映画の話をしていた。もちろん人よりも映画は早く見ているので、「そうだね、お薦め作品は…」などと調子に乗ってしゃべっていると、友人は「違う、違う」と思い切りかぶりを振り、「この夏の収穫は間違いなく『時をかける少女』でしょう!」と断言したのだった。これが試写室での一件に続いての二度目のビックリ。既に「時かけ」は公開中で、ウワサがウワサを呼び、劇場はとんでもないことになっていたらしい(その友人も早くから整理券を貰って観たんだそうだ)。

こんな具合に「時かけ」に関していえば、普段のように僕が情報をリリースするのではなく、むしろ周りからキャッチさせられた部分が大きかった。で、ようやく先日、フジテレビの放送でその本編と対面したというわけだ。

もちろんタイミング悪くCM入るし、いい場面で「お得な情報」が下部に流れるし、エンディングの余韻も充分には味わえやしない。でもきっと試写室の人や僕の友人が話してくれたその素晴らしさの100分の1程度は受け止めることが出来たように思う。彼らがいなかったら、多分またスルーしていたことだろう。いまさらながらお礼を言います。ありがとう。

で、『時をかける少女』に触れて真っ先に頭に浮かんだのは、「なぜ僕らはこれほどすんなりと本作を受け止められるのだろう?」という疑問だった。まるでこの映画を享受する遺伝子を前もって組み込まれていたかのような馴染みの深さがここには充満していた。端的にこう表現してしまうのは気が引けるが、どこか80年代のジブリ作品を再度スクリーンで目の当たりにしているかのような手ごたえ。特に主人公も『魔女の宅急便』のキキや『となりのトトロ』のサツキを思わせるところがあり、そのテンポ感といい、ストーリーの膨らませ方といい、キャラクターの配置といい、まるで『時かけ』こそがジブリ作品の正当な後継者なのだ、と認印を押したくなってしまったのは僕だけではないはずだ。本作ではそんな映画と僕らとが同じ遺伝子レベルで共鳴する瞬間が神業といっていいほどに数多く刻まれていた。

そして、こんなところも僕の心を捉えた。本作は“タイムループ”という超常的な現象をフィーチャーしながらも、実際のところそのストーリー構造は極めてオーソドックス。「過去」「現在」「未来」の存在をちらつかせながらも、タイムループで移動する範囲は「現在」の範疇から脱しない。だが、過去のエピソード(主人公の叔母が体験した20年前の出来事)については、決して多くは語られないものの、僕らは一枚の写真を目にすることで瞬時に何かを感じ取ってしまう。同じく、未来のエピソードにしたって、具体的にはほとんど了解を得ないのだが、あの青年が「どうしても絵が見たかった」と真剣なまなざしで口にすることで、僕らはあの絵の描かれた過去の出来事を思い出し、それを未来の置かれた実態に照射することができる。

つまり本作では「過去」「未来」を具体的には描かなくとも、すべては「現在」に答えがある。それも、セリフが説明責任を負うのではなく、むしろ様々な手がかりを観客の想像力に託することで、僕らはそこにいながらにして主人公と共に「時をかける」わけである。

ちなみに、一般的に物語の中で2つの世代が登場するとき、それらはひとりの人物の“過去”と“未来”である、との構造的見方ができることがある。

本作で登場する主人公・真琴と“魔女おばさん”こと叔母の和子の関係もその例外ではない。彼女が20年前に初代「時かけ」少女だったエピソードを背負っていることは誰もが知っているが、彼女がずっと言葉少なめに“絵画”を修復し続けている姿は、それがそのまま真琴が辿るかもしれない“未来”としても効力を発し、観客の心に仄かな後日談を去来させる要素となる。仮にそういう見方で2度目に臨むと、真琴が和子に成長して、また新たな高校生(3代目)と対峙しているように思えないこともない。そうやって鑑賞するたびに何度も何度も世代が入れ替わって歴史がループしていく感覚を抱いてしまうのも、本作があえて「続編」という立場を取っているからなのだろう。おそらく作り手はこういう意味も込めて、あえて原作のリメイクではなく、「続編」という曖昧さを志したのだと思う。

また、過去、現在、未来という“不可逆”な要素と共に、この映画には(それこそ本作が映画であるという性質から)、縦列に規則的に並んだ“フィルムのコマ”という時の刻み方がある。本作の心打たれる場面は百人の観客がいれば百通りあるだろうが、あえて筆者の嗜好に限定するならば、その感動の瞬間は、クライマックスで主人公が全力で走り出し、それをカメラが地道に追い続けるところにこそあった。いったんはカメラが速すぎて半分見切れてしまう真琴。しかしそれに負けじとぐんぐんスピードを増した彼女は、やがてカメラを追い抜き、追い越してしまう。つまり、彼女はここで「時をかける」能力は失ったものの、この瞬間、初めて自分の力でフィルムのコマという不可逆性さえも飛び越えて、彼に想いを伝えに走り続けるわけである。

蛇足ながら、ストーリー的にはここで真琴が走る意味なんてサラサラない。誰かに追いかけられているわけでもなければ、タイムリミットが迫っているわけでもない。けれど、彼女はその意志を表現する手段として走らずにはいられなかったのである。若いなあ!この意味のないところにパワーを注ぎ込めるところが青春だよなあ!おじさんにはもう無理だよ!無理、無理。監督に「走れ!」って言われても「なんで?」って聞き返すもん。って、別に役者じゃないし、誰からもそう言われる機会すらないんだけど。

・・・取り乱しました。で、ずっと映画ウォッチャーをやっとる筆者としましては、このカメラを追い抜く、コマを飛び越えるという表現方法が極めて斬新に思えたんですね。で、最後に若い男女が「未来で待ってる」「うん、走っていく」とやりとりを交わすわけなんですが、ここで「もうタイムリープできねえじゃん!」と突っ込みを入れる人は読みが甘いです。彼女は一度、映画における常識を飛び越えているわけですよ。ということはもう、過去とか未来とか、もうそんなことはどうでもいい次元にまで達している。そして、それこそ、筒井康隆が原作に込めた「記憶の中では何度でもタイムリープできる。しかし大人になると記憶は薄れ、大事なことも忘れてしまう」という基本精神を踏襲すると同時に、真琴のあの表情には、その運命にさえ真っ向から挑もうとしている意志が感じられる。またその「逢う」という意味を決して限定していないところにも、“未来”をあらゆる意味で観客の想像力に託そうとする作り手の姿勢に敬意を抱かずにはいられない。

実は原田知世主演の実写版ではもうちょっと“運命の皮肉”的な終わり方が待っているのだけれど・・・(あとエンディングでは主題歌を歌ってくれます)。ご興味ある方はぜひいつかぜひご覧になってみてください。

以上、ちょっと長めで乱雑な、『時をかける少女』覚え書きでした。

■この記事が参考になったら押してください→人気blogランキング

| | トラックバック (1)

『堕天使のパスポート』

原題は“dirty pretty things”という。 はっきり言って、この邦題はちょっとやり過ぎな気もするのだが、まあ、いいか。とにかく久々に観てよかったと思える作品と出逢った。小粒ながらにピリリと辛い、とても熱いハートを秘めた良作だ。

舞台はロンドン。とはいっても鼻にかかった独特のブリティッシュ・イングリッシュはまったく登場しない。ここは、誰もがおぼつかない怪しげな英語を操る、いわばロンドンの裏社会だ。ここで暮らす移民や不法滞在者たちは、いつの日かパスポートを取得し、国家間を自由に行き来できるようになることを願っている。また、そのためならばどんなことだってまかり通るのが裏社会の怖いところだ。

ナイジェリア人の不法滞在者オクウェは、昼間はタクシー運転手、夜間はホテルのフロントマン。とにかく寝る間を惜しんで働く毎日を送っている。 彼がそこまで身をやつすのには実は誰にも打ち明けられない理由があるのだが、それは映画の後半で明かされる。

ある日、ホテルの一室のトイレが詰まり、彼がゴボゴボと突っついていると、なにやら内臓系のものがプカプカと浮かんでくる。故郷で医者を営んでいたオクウェにはそれが人間の心臓であることが瞬時に分かった。支配人に相談するが「このことは闇に伏せるように」と忠告を受ける。いったいこのホテルでは何が行われているというのか・・・?

いつしか事態は、同居しているトルコ人の女性シェナイをも巻き込んで、血なまぐさく、どうしようもなくシビアに展開していく・・・と思いきや、実のところそこにはファンタジー映画でも観ているかのような不思議な空気感が漂っており、その幻想的にいざなわれていく様子がとても心地よいのだ。

つまり本作は、とても小さな世界観の中で必要最低人数の個性豊かなキャラクターたちが織り成す、ちょっとだけ怪しくも、とびきりの愛に満ちた物語、ということになる。

オープニングとエンディングを固めるのは、元トーキング・ヘッズのデイヴィッド・バーンによる“Glass, Concrete and Stone”という曲。作品の多国籍なイメージを倍増させる“不思議の世界への招待&お見送り”というような曲調で、その浮遊感はいつまでたっても耳から離れない。

主演は『アメリ』『ロング・エンゲージメント』のオドレイ・トトゥ&『キンキー・ブーツ』『トゥモロー・ワールド』に出演したキウェテル・イジョフォー。監督は『クィーン』『がんばれ、リアム』のスティーブン・フリアーズ。

| | トラックバック (0)

『ハッスル&フロウ』

 2005年度アカデミー賞において主題歌賞受賞&主演男優賞(テレンス・ハワード)ノミネートを果たした快作ながら、日本ではものの見事にレイトショーへとスルーされたヒップ・ホップ・ムービー。あるいは、『8マイル』、『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』に続く、ラップで輝ける人生を掴み取ろうとする男の物語・第3章(そんなシリーズ物ではありません)。

 といっても、こちらの主人公は40手前のしがない男だ。

 メンフィスのストリートでポン引き(ハッスル)稼業を営む主人公D・ジェイ(その名前のせいで、もちろん作中では「ああ、あれか、レコードをキコキコ回すやつか」と小馬鹿にされたりもする)が、やがて地元出身の大物ミュージシャンに認められようと一念発起し、スネオヘアーばりの宅録機材を駆使してで即席メンバーと共にコツコツとデモテープを作り上げる、というストーリーだ。

 そもそもこの時代に“テープ”という響きこそが世代のギャップを感じさせるところ。もちろん『いまどきカセット・デッキなんて誰も持ってねえぜ』ってな周りのツッコミも忘れない。

 湯水のごとく金を費やして作られた有名ミュージシャンのミリオンセラーよりも、「宅録」という響きにこそ敏感に反応する奇特な人も少なからずいるのではないだろうか。そういう観客にとって、この映画はまさに至福の時間を与えるものに違いない。

 部屋の壁は卵のパックで防音し、教会のオルガン弾きの若者をメンバーに引き入れ、幼なじみのエンジニアをアドバイザーに迎え、浮浪者から買い求めたキーボードがやがてキーとなるシンプルな和音を奏で始める。それに乗っかる女性コーラス、そしてオッサン主人公のぎこちないラップ…いや、それはやがて極上のフロウを醸成し、メンバーはひとえに恍惚な表情へと包まれていく。

 この世界で最も簡易なレコーディング風景は、まさに人生の高みを手繰り寄せていくかのような力強さと手応えを兼ね備え、まさに見てる間は鳥肌が立ちっぱなし。また音楽に魅せられた者たちがそれぞれに情熱を吐露する描写では、情けないまでに赤裸々な負け組みの想いが、(同じ“負け組み仲間”としての僕の)胸を締め付ける。

 そして運命のラストの20分がやってくる。

 このくだりがなければ、本作は「力のこもった音楽映画」としてごく平凡に処理されただろう。これに抗うかのように、監督のクレイグ・ブリュワーは、最後の最後で、この映画と即席メンバーとの間に流れる極上のフロウを、“伝説”の発芽としてパッケージングする。

 すべての人々が大成功を納めるほど世の中そんなには甘くない。しかし、人から人へといくつもの媒介を経ながら、その影響力は少しずつ拡がりを見せていく。その伝染力は決して偽りではない。そうやって何かが芽吹いていく瞬間を克明に刻もうとするこの映画の意志を、僕は最大限に評価したい。それは夢物語でもなんでもなく、誰ものごく近場にある、平均的な夢のかけらなのだ。観客はそれを握り締めて劇場の外へと帰っていくだろう。そしてこの映画を体感したすべての人々の身体の中で、D・ジェイのフロウは永遠に対流を続けるのである。

ハッスル&フロウ
監督:クレイグ・ブリュワー 出演:テレンス・ハワード アンソニー・アンダーソン タリン・マニング(2005年/アメリカ) 12月22日DVDリリース

●この記事が参考になったら押してください→人気ブログランキング

突拍子もない設定ながら、最後にはビシッと崇高な音楽精神へ。ずっと昔にやりのこした夢がムクリと顔を起こし、ウズウズと胸を高まらせる。そんな遅れてきた少年のような感覚に満ちた傑作です。

このブログ筆者の日記はこちら

| | トラックバック (1)

『トニー滝谷』

村上春樹ほどに自作の映画化を拒み続ける人はいない。それは彼自身がすでに人気作家であり、映画化に伴う権料よりは自作の文学としてのオリジナリティを守ろうとする想いの方が強いからに他ならないし、もちろんかつて『風の歌を聴け』(大森一樹監督)の映画化において相当苦い思い出を背負ってしまったことも充分に考えられる。

そんな村上がめずらしくも自作の映画化に「OK」を出した。ベテラン監督の市川準は、『トニー滝谷』という短編を取り上げて「ぜひ映画化を了承してください」と村上に直接交渉したと言う。次の瞬間、長期戦を覚悟していた市川の耳に届いたのは、「短編ならOKですよ」という信じられない返事だった。それだけでなく村上は、これから製作される映画に関して「どうぞ好きに調理してやってください」と何ら注文は付けなかったという。

原作者から与えられた自由。もちろんこの「自由」はクリエイターにとってプレッシャーとなる場合も少なくない。しかしそこはベテラン、市川準。彼はこの「自由」を驚くべきキャスト、スタッフ、そして方法論でもって実践していく。集められたのは、イッセー尾形、宮沢りえ、西島秀俊、そして撮影に広川泰司、音楽に坂本龍一。

「村上文学に漂う透明感を浮き立たせるには、これくらいやらなければダメだと思いました」

市川監督は雑誌のインタビューで僕にこう語ってくれた。

さらには、村上文学の「地上から3センチくらい浮遊している感覚」を出すために、スタッフは横浜の高台のてっぺんにセットをこしらえ、つまり窓から隣の雑居ビルなどが見えないような広々とした空間を作り出した。窓の向こうの空はどんよりと曇っていたり、青く澄み渡っていたり。その灰色と青とが透明感に拍車をかける。

そして、ページをめくるようにして横へ横へと時系列にスライドしていくカット。「トニー滝谷の本当の名前は、トニー滝谷だった」と語られる幼少時代から、カメラはそっと横にスライドし、何か障害物を越えたかと思ったら、次には大学生になったトニーがそこにたたずんでいるわけである。そのように村上文学特有の「クロニクル」的様相を際立たせていることにも注目に値する。

そしてたった80分程度の本作を観終わった後に感じるのは、大作映画にワンワン泣かされた後に感じる「ああ、すっきりした!」というような満足感などではなく、それとは全く根本的に違う別次元の充実感なのだ。なんという命の洗浄。この手ごたえはやはり「透明感」によるものなのだろうか。

ストーリーやディテールにも増して、この「透明感」を伝えようと入念に形作られたこの映画。この余韻は本作に触れてほぼニ年が経過したいまでも、心の中になにやらぼんやりと留まり続けている。まるでイッセー尾形の演じる「トニー滝谷」というキャラクターが、僕の中ですっかり居座ってしまったかのようなのだ。

西島秀俊によるナレーションが淡々と言葉を並べる。

「トニーはひとりぼっちになってしまった」

とても悲しいラスト。原作では確かにそうだった。
しかし、市川準はこれに仄かな希望を付け加えた。

「あまりにかわいそうだと思ってね。宮沢りえさんの発する存在感に本作がそっと寄り添いたいと思ったんですよ」

市川監督はそう語っていた。「自由にやってください」と告げた村上春樹の言葉が思い出される。その権利を最後の最後で行使した市川準。しかし僕にはこの「文学→映像」の翻訳は“感性”の部分でしっかりと共鳴していると断言できる。何より、原作を読み終わったときの“透明感”と、本作を見終わったときの“透明感”とが全くの同一のものだったことに驚かされる。ああ、これか。多くのスタッフを集め、豪華なキャストを招き、ある種の実験的でさえある手法でカメラを回し、大の大人たちが汗水ながして、このたったひとつの“透明感”を掴みたかったのか、と気の遠くなるような感慨が流れ込んでくる。

映画は上映時間やカタストロフィによる力技などでは成立しない。
ましてや一本の映画で多くを伝える必要さえない。

伝えたいことは、たったひとつでいいのだ。

原作となった短編『トニー滝谷』は短編集『レキシントンの幽霊』に収録されてます。ファンとしては本編以外にDVD特典も気になるところだったんですが、70分弱にも渡るメイキング・ドキュメンタリー(この映画の特殊な撮影法が明かされます)、監督&主演二人の撮りおろしインタビュー、完成披露舞台挨拶、初日舞台挨拶、などの映像特典をバッチリ収録。「この映画が好き」という人って、「なんとなく好き」っていうよりは「完全に引き込まれた」っていう人の方が多いんですよね。まさにそういう人の愛蔵版に足る、充実した内容。

| | トラックバック (1)

『ヘンリー・フール』

以下の文章は筆者が勢い余ってしまったため、ガンガンと映画の詳細に触れております。皆様におかれましてはどうか大人の判断でお読みください。

生涯でいちばん好きな映画だし、せっかくだからレビューに残しておこうと検索したところ、DVDがリリースされてないためにあえなく断念(ビデオのみのリリースらしい)。

ご紹介したいのは1997年のハル・ハートリー監督作、『ヘンリー・フール』。日本での公開は1999年。六本木の開発のために泣く泣く幕を閉じた“六本木シネ・ヴィ・ヴァン”の閉館記念作品でした(実際にはこの映画はあまり客が入らず、閉館直前の1、2週間は急遽シネ・ヴィ・ヴァンで観客動員記録を樹立した『CUBE』がリバイバル上映されたことを覚えています)。僕は六本木ヒルズを見上げるたびにそのときのことを思い出して、いささか恨めしい気持ちになってしまう。

ストーリーは、ゴミ収集人のサイモン、そして定職にもつかず世を彷徨い続けるヘンリー、というふたりの主人公を軸として展開する。

自称“作家”のヘンリーは、自ら「歴史的大作となるだろう」と豪語してやまない自叙伝『告白』の執筆に執念深く取り組む毎日を送っている。彼はある日、友人サイモンの隠れた文学的才能に誰よりも早く目をつける。

「いまはまだスペリングすら最悪だけれど、こいつはいつかきっとブレイクする」

そう信じた彼は、サイモンへいろいろとアドバイスを施し、いつの日かサイモンは本当に“時の人”となってしまう。ひとりの隠れた才能が花開いた。これは本当に喜ばしいことだ。しかしひとりだけビミョーな気持ちを抱えた男がいた。

もちろん、ヘンリーである。

サイモンの成功とは裏腹に、ヘンリーはといえば執筆中の『告白』も一向に完成の目処が立たず、サイモンが試しにそれらの著作に目を通したところ、それはお世辞にも傑作とはいいがたい、つまりはっきり言って、“駄作”なのだった・・・。

ここに登場するのは、「ひょんなことから自分の才能に花を咲かせた人間」と、「やりたいことは決まっているけれどその才能が認められない人間」の二種類ということになる。

「あなたはいったいどちらの人間ですか?」と聞くのはとても酷なことだろうか。

きっと“成功者”ばかりで溢れかえった世界なんて混沌としているに違いない。この世のバランスを考えると、成功を掴み取れる人間はほんの一握りに決まっている。じゃあ、あとに残された人間はどうなるのか。多くの人たちは、使い物になるかどうか分からぬ自分の才能を、生涯に渡って背負って走らなければならないのである。

つまり、“サイモン”は成功者で、その他の多くの人間はみな“ヘンリーの側”ってことだ。

この映画のラストシーン、ヘンリーは何十冊にも及ぶ歴史的大作(自称)『告白』をカバンいっぱいに詰め込んで、それを両手に抱えながら全速力で走り続ける。走り続けたまま、音楽が高鳴り、そして画面はフッと暗転。その真剣な表情もあってか、ヘンリーの姿が初めてカッコよく映った瞬間だった。

取るに足りない(かもしれない)才能をカバンいっぱいに抱えながら、僕らは日々、走り続けている。それがホンモノなのかどうかなんて誰にも分かりゃしないし、それは時間の流れや時の運だけが証明してくれる。人間、誰もが成功したいって願うけれど、本当に美しいのは、“才能が花開く”どうこうよりも、人がガムシャラに突っ走る姿そのものではないだろうか。少なくともラストシーンのヘンリーからはそんな感慨が湧きあがってくる。結局、自分が自分にしてやれることは、突っ走る自分をただ信じてやることだけだと思うのだ。

僕がひどく落ち込んでいたときに、この映画が勇気を与えてくれた。いまでも落ち込んだときにはこの映画のラストシーンを繰り返し見る。すべての凡人に勇気を与えてくれる佳作だと思っている。

そう、佳作でいいんだ、傑作じゃなくたって。

このブログ筆者の日記はこちら

| | トラックバック (0)

『ダークシティ』

僕が影響を受けた旧作を、メモ代わりに掘り出していきます。好みがかなり偏っていますが、あまり気にしないでください。その第一回目は、『ダークシティ』。

ダークシティ』といえば、『クロウ 飛翔伝説』『アイ、ロボット』のアレックス・プロヤス監督の出世作。 この映画の成功があったからこそ、彼はビッグ・バジェットの『アイ、ロボット』を撮ることができたといっても過言ではない。実際、ハリウッドのお偉方を魅了するほどの独自の鬱屈&解放のビジュアルがとめどなく展開し、トータル的には驚くほど面白い世界観が構築されている。

ストーリーは、笑っちゃうくらいに『マトリックス』の世界に似ている。 「なんかこの世界、おかしくないか?」と危機意識を持った男が次第にトンデモない真相に迫っていく。って、マトリックスそのまんまじゃん。
で、実のところ、ふたつのうち早く完成したのは『ダークシティ』なのだ。

この件に関しては逸話が残っている。 本作を試写したジョエル・シルバーが「こりゃあ、おもしれえ!」っつうことで、ちょうど『マトリックス』をプロデュースしている途中だったこともあり、「ちょっとお前ら、これすっげえ面白いから観てこいよ」とウォシャウスキー兄弟に薦めたそうな。で、シルバーは彼らがすっかり喜んで帰ってくるだろうと予想していたのに、試写後の彼らは気が狂ったように怒ってて、「あんた馬鹿じゃねえの!俺らの映画、作りにくくなるじゃねえか!」だって。

ジョエル・シルバーは良かれと思って薦めただけなのに。まあ、プロデューサーって案外こんなものなんでしょうか。

とにかく、ダークな色彩感覚といい、登場人物の荒唐無稽なキャラ設定といい、途中で出てくる奇妙なキョンシー的(あるいはミヒャエル・エンデ原作で映画化された『モモ』の“時間泥棒”的な)集団といい、すべてが寄せ鍋状態で絡まりあって、ほど良くマッタリ。良い意味でB級テイストが満載なのだ。 いやホントは“A級”に分類したいんだけれど、もうこの作品への愛情は僕だけの嗜好品として何度でも楽しみたいほど膨れ上がっているんだからしょうがない。

だから、大きな声では言いたくないけれど、ここだけで言っちゃう。

“傑作”です!

●この記事が参考になったら押してください→人気ブログランキング

| | トラックバック (0)

『やさしい嘘』

母子家庭に生きる親子三世代(おばあちゃん、娘、孫娘)の心の交流の物語。

ストーリーは、『グッバイ、レーニン』といささか似てないこともない。 つまり、心臓の悪いおばあさんに息子の死を伝えまいと周りが躍起になって嘘を散りばめるのだ。タイトルに「やさしい」という言葉を持ってきたのはとても巧いと思った。国家体制の変移に翻弄され続けた人々にとって、「やさしさ」の定義は世代ごとに大きく異なるものなのだ。そこからドラマが生まれていく。

チラシだけを見て偽善的な映画だと誤解するのは避けるべきだ。スターリニズムを生活の励みにしながら生き続けてきた世代と、それを否定してきた世代との狭間にある“壁”は、まるで『グッバイ、レーニン』のベルリンの壁を彷彿とさせるようでもある。それに気付いた瞬間、“福祉映画”のように見えていた作品は、それだけでは終わらせない深みへと大きく昇華していく。

一般的に「やさしさ」と呼ばれるものは、常に強者から弱者に向けて差し伸べられるものと考えられがちだ。つまり「施されるもの」として。共産主義を脱した現代であればなおさらのことそう考えるだろう。 映画の中の“三世代の親子”はとても大きな愛に包まれている。しかし三者三様にそれぞれの世代の壁を持っていることも確かだ。そして、この映画で何より気付かされるのは、三世代という家族構成は、更に「二組の母娘」という単位へと分けれらるっていうことだ。彼らの手によって、やさしさの総意とはどのように決着がつけられていくのか。あっと驚いて泣かされる結末がそこには待っている。

グルジアとは生きている生活環境も違うが、しかし“高齢化社会”という難問に突き進んでいる日本人にとっても、この映画は実にきもちのいい裏切られ方となって心に染みてくる。

映画で滅多に泣かない僕も久々に泣いた。 おばあちゃんの笑顔が記憶の中に蘇るだけで今でも涙が滲んでくる。 まだ若い女性監督がこしらえた周到なトリックに完敗である。

| | トラックバック (0)